___白鷺エマが楝本穂積に連れられて辿り着いた廊下は、大きな彫刻を正面に構え、荘厳だが慎ましやかな小さなサンクチュアリを彷彿とさせていた。幾つもの大輪の花束がアンティークの台の上でエマを歓迎し、嘲笑っているようにも見える。その連なる花に目もくれず、2人は先に居る梗華を目指して走った。
梗華は床につくかつかないかスレスレの状態で足を浮かばせ、身体を仰け反らせ、彫刻に喉元を両手で押さえ込まれている。その手は、彼女自身のものではなかった。背後に立つ彫刻が、無機質な腕を伸ばし、確かな力で首を締め上げているのだ。石の指は冷たく、感情の無い形をしているのに、力だけは生々しい。
梗華の足先が僅かに動き、床を掻く音がした。声にならない息が漏れ、視線が宙を彷徨う。
エマ達の言動に、彫刻は反応しなかった。只、任務を従順に遂行するかのように、締める力を緩めない。
梗華の視線が、かろうじてエマを捉える。その瞳には、助けを求める色よりも、間に合わないかもしれないという諦観が滲んでいた。
それに、梗華の頸と呼応するように、エマの心が締め付けられる。
エマは唇を噛み、彫刻を見上げる。石の顔は無表情で、何を壊しているのかすら理解していないかのようだ。空間の静けさが、異様な程、彼女等の空気に重くのしかかっていく。
いつも梗華に棘を刺してばかりの穂積も、今は悲痛に満ちた顔で、自身の無力さを呪うかのように思考を回している。
エマはその場から動けずにいた。彫刻像の腕は未だに梗華の頸を捉え、石の指は冷たく、しかし確かな力で締め付けている。近付けば助けられるという単純な話ではないことだけは理解した。触れれば逆に力が増すかもしれない。状況が悪化するかもしれない。
何故ならば、あの彫刻の頸の絞め方が、明らかな"規則"に則った"意思"によるものに見えたからである。
指の先端、第一関節を曲げ、食い込むように頸動脈を刺激している。頸静脈に比べて圧迫しても破潰される迄の耐久力は強いが、その分、大量失血や高血圧によって命が危険に晒される確率も高い。爪がなくとも、あの彫刻は指の腹での圧迫の仕方が"手馴れている"。このままではほぼ確実に命を落とす。高速で思考は巡るものの、直結する答えは何処にも見当たらなかった。
一体如何すれば良い。如何すれば彼女を安全に助けられる。その問いが胸の内で膨らみきった、
その瞬間。
棒のように立ち、空気に調和しているのに異質さを纏わせたうつろは、2人の視線を意に介さず、彫刻と梗華を一目見て、何も言わずに頷いた。その視線は、状況そのものを読んでいるようである。
エマは何となく、"うつろの邪魔をしてはならない"と思い、口を噤んだ。
"ユースティティア様を侮辱するようなこと、言った?"
穂積の眉がぴくりと動く。エマは只、彼女等の会話に聞き耳を立てつつ、未だ苦痛から解放されない梗華の様子を眺めるしかない己の無力さを痛感していた。
"ユースティティアなんて、盲信信者の偶像に過ぎない"。
その言葉に、うつろの気配が一瞬変わった。
その視線が、苦しげに身体を強張らせる梗華へと向けられる。彼女の目が食い絞られるように細められながらも、微かな鋭さを残している。それは、彼女自身が罪を認めないのと同義であった。
エマは改めて彫刻を凝視した。目隠しをした女性。元来なら手に持っている筈の天秤と剣は台座に置かれている。だが、その神々しい…否、森厳な面持ちや雰囲気は、正しく正義の女神ユースティティアをモチーフとしていた。
うつろは責める調子を取らない。しかし、只、事実を並べるように言った。
グギィッ…ッッ!
彫刻の腕が不協和音を奏でた。締め付けが強まったのが、見てわかった。梗華の足が宙を飛び、呼吸が更に乱れる。
うつろは無表情を崩さず、抱える人形は淡々と他人事のように言葉を並べつつ、梗華の顔を捉えた。エマも穂積も、今直ぐにでも彼女を助けたいと思った。
けれど、うつろに任せるべきだと、脳が叫んでいる。
だが、それでも状況を傍観するのは2人には無理だ。
しかし、自分達がここで雑な事をするのは邪だろう。
それこそ、梗華の命を危うくする。そのことを、直感的に理解していた。
2人は、繰り返される接続詞の羅列に脳を焼かれつつ、それ等を理解した上で、もどかしい気持ちを彫刻に向け、表情を曖昧に固めて濁した。
梗華は力を振り絞って頭を振る。その仕草は拒絶というより、認めたくないという感情に近かった。彼女の中の誇りが、恐怖より先に顔を出す。だが、その直後、圧が一段深くなり、視界が白く滲む。エマは思わず声を上げかけるが、うつろの人形による無機質な視線に制され、黙り込んだ。
うつろは梗華をじっと見つめる。今度は優しくも冷たくもない確かな逃げ道を塞ぐような効力をもって、再度声をかけた。
言葉が沈みながら梗華のもとへと辿り着き、彼女の口を開く。
その瞬間、彫刻像の動きが止まる。石の腕がゆっくりと緩み、やがて梗華の首から完全に離れた。反射的にエマ達も駆け寄り、安否を確認する。
梗華は床に崩れ落ち、荒い呼吸を繰り返す。生きているという事実を、何度も確かめるように。エマが背中を擦り、穂積が心拍を丁寧に探る。
回廊が再び空気として静寂に染まった。うつろはそれを見届ける。
言葉を慎重に拾ってか、梗華は珍しく大人しいままこくりと頷いた。うつろはそれを確認すると、じゃあね、と手を振る人形と共に去って行く。エマはその後ろ姿に「…有難う、助かったよ」と声をかけるが、うつろは振り返らず、淡々と靴の音を鳴らしながら、静粛を纏って去って行った。
軈て梗華の呼吸が整うと、彼女は安堵の息を吐き、ほっと胸を撫で下ろした。
梗華と穂積は、助かったという事実を共有するよりも先に、言葉をぶつけ合っていた。互いに譲る気配は無く、声の調子だけが徐々に上がっていく。その様子を前にして、エマは肩の力を抜いた。呆れに近い感情が先に立つ。それでも、それも一瞬の後に、口元には抑えきれない喜びと安心の笑みが浮かんでいた。あんな事はあったけれども、生きている。少なくとも今は、それだけで十分だった。
エマは視線を逸らし、先ほどまで立っていた回廊の奥を思い出す。寄生木うつろ。現れ方も、言葉の選び方も、あまりにも自然で、まるで最初からそこにいることが前提だったかのようだった。何者なのか。何故人形を介して話すのか。確かに感情の込もった喋り方なのに、何処か淡々として無機質なように聞こえてしまうのも歯痒く感じる。考え始めれば、疑問は幾つも浮かんできた。
だが、エマは首を小さく振る。
詮索することは出来る。けれど、それをしないという選択もある。うつろは、必要な時に必要な言葉だけを残して去った。それで充分だし、その距離感に、踏み込まない方が良いと直感的に理解していた。全てを知ろうとするのは、自分の性には合わない。
再び、梗華と穂積の口論が耳に入る。無事である証のような騒がしさに、エマは小さく息を吐いた。
その時。
高らかな声が、何処からともなく響く。楽しげで、よく通り、耳に残る笑い声。空間そのものが、その声を歓迎しているかのように反響する。
エマの背筋に、冷たいものが走った。この場所に似つかわしくない程、無邪気で、愉快そうな声。皇妃のものだと気付いた瞬間、空気が一段と重くなる。
それは自覚してはならない筈なのに、事実のようにのしかかってくる。仕方ない事ではあるのだ。彼方の殺し合いとて、半ば強制的なもの。つまりは、殺りたくなくても殺らねばならない世界なのだ。
…我々は死者を見送るしかない。
2人がエマの服の両裾をそれぞれ掴んだ。エマは心配をかけさせたと直感すると、「大丈夫」と微笑んでみせる。
彼女は別に、人の死を何食わぬ顔で見届けられる程強い訳ではない。だが、彼女ひとりの心だけで、彩りを失う祭典ならば、どれ程楽だっただろうか。建築にしろ絵画にしろ、結局は人間の心は気紛れであり、肝心な場面でズレる事のないよう、時に静かに、時に必死に、丁重に、己を制御しているだけなのである。
その言葉だけで、2人は行き先を推測出来た。こくりと頷けば、3人揃って目的地へと向かう。最早足取りは重くなかった。誰かが先に選ばれてしまっただけ。何時か我々も死んでしまうかもしれない。僅かな希望だけを抱き、待ち受ける衝撃への盾として装備し、
彼女等は、ホールへと進むのだった。



















編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!