朝と呼ぶには少し早い時間、街はまだ完全には目を覚ましていなかった。空気は夜の名残を引きずったままで、アスファルトの上には昨日の雨が薄く膜を張っている。歩くたびに靴底がわずかに吸いつく感覚がして、それが妙に現実的だった。ここにいる、という事実だけが確かな情報として身体に伝わってくる。建物の壁面に取り付けられた案内板は、どれも微妙に色褪せていて、文字の輪郭が溶けかけている。まるで時間そのものがこの場所を通過するのを躊躇したみたいだった。
昨日見た光景が、まだ視界の端に残っている。はっきりと思い出そうとすると、形を失っていくのに、ふとした瞬間にだけ鮮明になる。音のないはずの場所で、確かに何かが動いていた感覚。理由もなく胸の奥が冷えたあの瞬間。あれは警告だったのか、それとも単なる錯覚だったのか。考えをまとめようとするほど、答えは遠ざかっていった。周囲を見渡すと、同じ方向へ向かう人影がいくつか見える。誰もが似たような速度で、似たような姿勢で歩いているのに、互いに干渉しようとしない。その距離感が、この街のルールなのだと理解するまでに、そう時間はかからなかった。
角を曲がった先で、視界が一気に開ける。かつて何かが建っていたであろう更地が広がり、中央には用途不明の構造物が残されている。錆びた金属とコンクリートが無理やり組み合わされたそれは、完成を拒否されたまま放置されたようだった。近づくにつれて、空気の密度が変わる。音が吸われ、足音だけが不自然に大きくなる。ここが境目なのだと、説明されなくてもわかった。戻ることもできるし、進むこともできる。ただし、どちらを選んでも同じ自分ではいられない、そんな予感だけが確かにあった。
構造物の影に入った瞬間、背後の街が遠のく。視界が暗転するわけでも、何かが劇的に起こるわけでもない。ただ、世界の輪郭が一段階内側に引き寄せられる。ここまで来た理由を、今さら言葉にすることはできなかった。必要だったのは納得ではなく、確認だ。自分が見たものが、感じた違和感が、確かに現実に根を下ろしているのかどうか。その答えは、この先にしかない。構造物の奥へと続く細い通路を前に、呼吸を整える。足を踏み出すと、乾いた音が一度だけ響いた。それは合図のようで、同時に取り消しのきかない選択の証明でもあった。












編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。