──静寂が、すべてを包んでいた。
世界はまるで水の底に沈んだようで、音も風もない。
気づけば、わたしはひとり、雪のない森に立っていた。
そこには春の気配すら漂っていた。
けれど、どこか仄暗い。何かを秘めているような、黙した森。
──ああ、ここは。
思い出すより先に、胸の奥がざわめいた。
ひとりの少女が、そこにいた。
白い外套に身を包み、小さな背を風に揺らしながら、まっすぐに歩いていく。
ミーシャ──
わたしはその名を、心の中で呼んだ。
少女は、ふと立ち止まり、振り返る。
その瞳に映るのは、だれかの〝影〟
「……ここが、始まりだったのね」
その声は、わたしのものではなかった。
けれど、わたしの胸が震えた。
影の前で、ミーシャはそっと膝を折る。
そして、掌の上にひとつの〝瞳〟を捧げる。
「この瞳には、すでに消えた国の記憶がある。忘れられた歌と、誰も帰らなかった祈りが刻まれてる。でも、それでも……受け取って。あなたが次の〝つなぎ〟になるのなら──」
影は何も言わず、ただその瞳を受け取った。
ミーシャは、すでに〝旅の終わり〟にいた。
命を燃やすように、記憶を渡すためだけに、この森へ来たのだ。
そしてその顔には、どこか安らぎすら浮かんでいた。
「もうすぐ、わたしも〝忘れられる〟のね。……けれど、それでいい。誰かが、続きを歩いてくれるのなら……」
風が吹いた。
その瞬間、森の色が淡くにじみ──
景色はふたたび、白い闇の中へと崩れていった。
息を呑んで目を開けた。
「……ミーシャ」
わたしは思わず、その名を口にしていた。
小屋の中は静かだった。
アデルは炉の前に膝をつき、わたしのほうを見ていた。
「……見たんだね。彼女の最後を」
わたしは頷く。
掌には、欠片はなかった。
ただ、かすかに温もりが残っていた。
「〝記憶をつなぐ〟って、こういうことだったんだ……」
それは、命の一部を預かること。
もう戻れない誰かの、祈りの続きを歩くこと。
「きっと、ミーシャも……アデルのお姉さんも、誰かの未来を見ていたんだと思う」
「そして今、その誰かは──君、なんだろうね」
アデルの言葉が、静かに降る雪のように沁みていく。
わたしは、もう一度、瞳を見つめた。
まだ、欠片はすべて揃っていない。
けれど、その記憶の旅は、確かに〝今〟を通じて、生きていた。
──なら、行かなくちゃ。
わたしは静かに立ち上がった。
「……北へ向かう。記憶の終着点へ。
そこに、ミーシャが最後に遺したものがある気がするの」
アデルは頷いた。
「僕も、行くよ」
雪はやんでいた。
小屋を出ると、空には光の兆しがあった。
──旅は続く。けれど、もう、ひとりではない。
そしてわたしは知っている。
その先に、ミーシャの〝想い〟が待っていることを。











編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!