あなたの下の名前side
その日も、私はいつもと同じ時間に喫茶店のドアを開けた。
ベルが鳴る。
落ち着いた空気。
少しだけ深煎りの匂い。
カウンターの中に立つ松村さんが、こちらを見る。
いつもと同じ声。
でも、目だけが少し違った。
——あ、と思う。
理由は分からない。
でも、今日は“いつも”じゃない。
席に座ると、
何も言わなくても、コーヒーが用意される。
その動きが、ひどく丁寧で。
カップを受け取るとき、
指が少しだけ近づいて、触れそうで触れない。
心臓が、小さく音を立てた。
店内には、私たち以外ほとんど人がいない。
静かな時間。
コーヒーを一口飲んで、
私はふっと息を吐いた。
前に、考えたことがある言葉。
でも今日は、逃げずに口に出した。
松村さんはすぐに答えなかった。
少しだけ視線を落としてから、
ゆっくり、こちらを見る。
静かな声。
一瞬、意味が分からなくて。
それから、胸の奥がじんわり熱くなる。
私が言い終わる前に、
松村さんは小さく息を吸った。
そう前置きしてから、
いつものカウンター越しに、真っ直ぐ言った。
指輪もない。
派手な言葉もない。
でも、それで十分だった。
私は少しだけ考えるふりをして、
それから笑った。
即答だった。
胸がいっぱいになって、
言葉が詰まる。
だから私は、
一番自然な答えを選んだ。
それだけ。
松村さんは、ほんの少しだけ目を細めて、
いつもより柔らかく笑った。
その日から、
私の名字は少しずつ変わっていった。
席は、同じ。
コーヒーも、同じ味。
でも、
「いらっしゃいませ」の意味だけが変わった。
——ただいま、って言える場所。
誰にも気づかれないくらい静かに、
それでも確かに。
私たちは、
ユニゾンの片隅で、人生を重ね始めた。
(完)












編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。