第70話

番外編 第10話
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2026/02/18 10:00 更新
あなたの下の名前side
その日も、私はいつもと同じ時間に喫茶店のドアを開けた。
ベルが鳴る。
落ち着いた空気。
少しだけ深煎りの匂い。
北斗
いらっしゃいませ
カウンターの中に立つ松村さんが、こちらを見る。
いつもと同じ声。
でも、目だけが少し違った。
——あ、と思う。
理由は分からない。
でも、今日は“いつも”じゃない。
席に座ると、
何も言わなくても、コーヒーが用意される。
その動きが、ひどく丁寧で。
北斗
お待たせしました
カップを受け取るとき、
指が少しだけ近づいて、触れそうで触れない。
心臓が、小さく音を立てた。
店内には、私たち以外ほとんど人がいない。
静かな時間。
コーヒーを一口飲んで、
私はふっと息を吐いた。
あなた
……この店、なくなったらどうなるんでしょうね
前に、考えたことがある言葉。
でも今日は、逃げずに口に出した。
松村さんはすぐに答えなかった。
少しだけ視線を落としてから、
ゆっくり、こちらを見る。
北斗
なくならないように、します
静かな声。
北斗
場所としてじゃなくても。
 あなたが、戻ってこられる場所に
一瞬、意味が分からなくて。
それから、胸の奥がじんわり熱くなる。
あなた
……それって
私が言い終わる前に、
松村さんは小さく息を吸った。
北斗
特別な言い方は、できないんですけど
そう前置きしてから、
いつものカウンター越しに、真っ直ぐ言った。
北斗
この先も、
 一緒に同じ時間を過ごしたいと思っています
指輪もない。
派手な言葉もない。
でも、それで十分だった。
私は少しだけ考えるふりをして、
それから笑った。
あなた
……帰ってきても、いいんですか
北斗
はい
即答だった。
北斗
帰ってきてください。
 毎日でも
胸がいっぱいになって、
言葉が詰まる。
だから私は、
一番自然な答えを選んだ。
あなた
……じゃあ、お願いします
それだけ。
松村さんは、ほんの少しだけ目を細めて、
いつもより柔らかく笑った。
その日から、
私の名字は少しずつ変わっていった。
席は、同じ。
コーヒーも、同じ味。
でも、
「いらっしゃいませ」の意味だけが変わった。
——ただいま、って言える場所。
誰にも気づかれないくらい静かに、
それでも確かに。
私たちは、
ユニゾンの片隅で、人生を重ね始めた。
(完)

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