第2話

コートの外側で
2
2026/05/28 12:46 更新
県大会当日。
朝の体育館には、いつもと違う緊張が張りついていた。
ゆのはラケットバッグの肩ひもを握りしめながら、控えスペースに立っていた。
手のひらが少し汗ばむ。
「落ち着け」
隣から声がして、顔を上げる。
榊 恒一。
テニス部の部長であり、このチームの中心。
今日は選手としても出場する。
「……落ち着いてます」
そう言ったのに、声が少し震えた。
部長はそれを見抜いたみたいに、軽く息を吐く。
「落ち着いてるやつは、そんな顔しない」
「……」
否定できなかった。
榊部長は、ゆののラケットバッグを一度見てから言う。
「初戦、緊張するのは普通。だから悪いことじゃない」
その言い方は、いつもと同じだった。
優しくて、でも逃げ道はない。
「ただ、飲まれたら終わる」
ゆのは小さく頷く。
その瞬間、遠くからコールが響いた。
「榊選手、コートへお願いします」
部長は一瞬だけ視線を上げる。
「じゃあ、行ってくる」
それだけだった。
でも、ゆのにはわかる。
この人は“勝つ前提”でそこに行く。
迷いがない。
背中が遠ざかっていくのを見ながら、ゆのは自分の胸が少しだけざわつくのを感じた。
(……すごい)
同じコートに立っているはずなのに、距離が違う気がする。
◆
試合は圧倒的だった。
榊部長は淡々とポイントを積み重ね、相手を追い詰めていく。
派手さはないのに、気づけばゲームは終わっている。
「ゲームセット。榊選手の勝利」
歓声の中でも、部長の表情は変わらない。
汗を軽く拭うだけで、すぐにコートを出ていく。
そのまま、ゆののいる方へ歩いてきた。
「見てた?」
「……はい」
ゆのは小さく頷いた。
言葉が出ない。
さっきまでの試合が、頭から離れない。
部長は少しだけ息を吐く。
「じゃあ、次はお前の番」
その一言で、現実に引き戻された。
◆
ゆのの初戦。
相手は同じ学年のシード選手。
最初のサーブで、いきなりポイントを取られる。
「0-15」
心臓が跳ねた。
(落ち着け……)
そう思うほど、体が硬くなる。
ラリーが続かない。
一球ごとに、焦りが増えていく。
(やばい、全部見られてる……)
ふと、観客席の方に目がいく。
そこに、榊部長がいた。
腕を組んで、じっと見ている。
表情は変わらない。
でも、その視線だけがやけに重い。
(見てる……)
その瞬間だった。
ボールが飛んできた。
反射でラケットを振る。
カンッ。
——返った。
ゆのは息を呑む。
(今の……)
さっきまでとは違う感覚。
「今の、いいよ!」
遠くから部長の声が飛んだ。
その一言で、何かが変わった。
怖さが、ほんの少しだけ薄れる。
ゆのはラケットを握り直した。
(もう一回)
次のラリーは、少し長く続いた。
相手のミスでポイントが入る。
「15-15」
ほんの少し、世界が動いた気がした。
◆
試合後半。
スコアは拮抗していた。
息が上がる。脚が重い。
でも、さっきよりは見えている。
ボールの軌道。相手の癖。
そして——観客席の視線。
そこにいるのが、なぜか支えになっている。
最後のポイント。
相手が放った強打。
一瞬、体が止まりかけた。
(怖い)
でも、そのとき思い出した。
「怖いよ。でも、それより守りたいものの方が大きいだけ」
部長の声。
ゆのは踏み込んだ。
ラケットを振る。
カンッ。
ボールはぎりぎりでネットを越え、コートの奥へ落ちた。
静寂。
「ゲームセット」
その瞬間、足から力が抜けた。
勝った。
◆
コートを出た瞬間、誰かに呼ばれた。
「ゆの」
顔を上げると、榊部長が立っていた。
いつもと同じ距離。
でも、少しだけ違う空気。
「勝ったな」
「……はい」
短い沈黙。
部長は少しだけ目を細める。
「怖かっただろ」
ゆのは一瞬迷ってから、小さく頷いた。
「でも、打てた」
その言葉に、部長はほんの少しだけ笑った。
「それでいい」
そして、少しだけ間を置いて続ける。
「次も見てる」
その言葉が、なぜか一番心臓に響いた。
ゆのは思わずラケットを握り直す。
(……ずるい)
優しすぎる声で、逃げられないことを言う。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
むしろ——もう少しだけ、あの視線の中にいたいと思ってしまった。

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