あの男に声をかけられたあと、
わたしはまた、母の隣に戻っていた。
天井から下がるシャンデリアは変わらず煌びやかで、
高らかに響く楽団の音に合わせて、人々の談笑が混じり合う。
……けれど、それは昼間とはまるで違っていた。
会場を満たしていた光は、いつしか西陽へと変わり、
色とりどりのドレスも、どこか影を落とすように沈んでいた。
母は上機嫌だった。
さきほどまで挨拶をしていたご婦人たちがまた集まり、
再び輪になって話し込んでいる。
わたしはその隣で、お人形のように黙って座っていた。
――何の感情も浮かべず、
ただ、笑っているふりをして、そこに居た。
外の空が、藍色へと染まっていくのが見える。
硝子窓の向こうに、ほのかに風が揺れているのが見えた。
頬にかかる髪を指で梳き、わたしはそっと口を開いた。
「……少し、外の空気を吸ってきてもいい?」
母は一瞬だけこちらに目を向け、
「……ええ」と、短く頷く。
それだけで、わたしは立ち上がった。
何も言わず、何も振り返らず、
そのまま、静かに会場を抜けて――
硝子の扉の向こうへと、足を踏み出した。
夜の帳が、そっと館を包み込んでいた。
大広間のシャンデリアは、まるで星の残光のようにまだ煌びやかだったけれど――
そこから一歩外に出るだけで、空気は一変する。肌に触れる夜風がひんやりとしていて、胸の奥を静かに撫でていった。
硝子の扉を抜けて中庭に足を踏み入れたのは、ほんの気まぐれだった。
庭園の灯は抑えられていて、薄明かりのランタンが小さくぽつぽつと瞬いている。
――静か。
それが、何より心地よかった。
私は石畳の端を歩きながら、少し奥のほうへと進んでいく。
視線の先には、薄暗い木陰と、揺れる芝の波。そこに誰かがいる気配は、ない。
(……このまま、誰にも見つからなければいいのに)
そう思った瞬間だった。
「……ほぉん、逃げ出したんじゃなくて、サボりに来たってわけか?」
くぐもったような声が、闇の中から降ってきた。
――振り返ると、例の男がいた。
広間の窓辺で、勝手に話しかけてきたあの“男”。
……いや、正式にはまだ名乗り合ってもいない。ただ、視線の先にその姿がある、というだけで――
私の中で、空気の温度が変わる気がした。
「別に……話しかけられたくて、ここに来たわけじゃないんだけど」
夜気に溶け込むような小さな声で、私はそう返す。
それでも彼には聞こえていたらしい。ふっと笑う息が、耳に届いた。
「へぇ。俺と話すのがそんなにイヤか?」
「……うん」
「ははっ。素直で結構。だが、そう言われると逆に構いたくなるのが、人の性ってやつでな」
うっとうしい、と思った。
でも、どこか心のどこかで、“慣れてしまった”感覚があるのが、もっと腹立たしい。
「で、お前……名前、なんだ?」
さらりとした問いかけだった。
でも、私は答えなかった。少し間を空けて、目を逸らす。
彼はそれを見ていた。けれど、無理に聞き返してはこない。
ただ、低く、笑いを含んだ声で――
「……まぁ、無理に答える必要は無いけどよ」
とだけ言った。
(……なんなの、それ)
どうしてだろう。ちょっとだけ――
胸の奥が、ざわっとした。
そのとき、木陰のほうから、さらさらと草の音がして。
「……あんたら、うるさいんだけど」
芝の向こうから、ゆっくりと人影が起き上がった。
(……え?)
黒髪に、眠たげな目。式服の上着は脱ぎ捨てられていて、草の上で寝ていたらしい。
私はその顔を知らない。けれど、“男”の顔が、ほんの一瞬だけ変わったのを見た。
「……兄者、なんであんたがここにいるわけ。こっちは気持ちよく寝てたんだけど?」
「……寝床が芝ってのもどうかと思うがな、凛月」
(凛月――)
その名前を、“男”が口にした。
弟、なのだろうか?
それとも――ただの知り合い?
「……あんた、誰?」
眠たげな赤い瞳が、こちらを向いた。
言葉は刺々しいが、どこか気の抜けた響き。
私は黙って、その視線を受け止める。
彼は小さく肩をすくめると、やれやれと言わんばかりに草を払って立ち上がった。
「ふーん。ま、いいや。じゃあ俺、戻るから。」
そう言い残して、ふらふらと館の方へと戻っていく後ろ姿。
(……なんだったんだろう、あの人)
ぽつんと残された私は、ふと、隣にいる“男”を見上げる。
彼はといえば――
「なぁ、ぽつんと、ふっと。
(名前)の肩から、力が抜ける。
さっきまで張り詰めていた糸が、するりと解けていく。お前。さっきから妙に口が堅ぇな?」
また、からかうように笑っている。
「……うるさい。関係ないでしょ」
それだけ言って、くるりと背を向けた。
「お嬢様〜!こちらにいらっしゃいましたか、奥様がお戻りになるようにと」
メイドが私に言う。
小さく頷くと、背中に感じる視線を無視して、私は再び広間へと戻っていく。
足音が、石畳に消えていく。
(これで、もう終わり。……たぶん、二度と会うこともない)
なのに、どうして――
その背中に、何かが焼きついて離れないのだろう。












編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。