第4話

第四話
44
2025/08/15 11:31 更新
あの男に声をかけられたあと、
わたしはまた、母の隣に戻っていた。

天井から下がるシャンデリアは変わらず煌びやかで、
高らかに響く楽団の音に合わせて、人々の談笑が混じり合う。

……けれど、それは昼間とはまるで違っていた。

会場を満たしていた光は、いつしか西陽へと変わり、
色とりどりのドレスも、どこか影を落とすように沈んでいた。

母は上機嫌だった。
さきほどまで挨拶をしていたご婦人たちがまた集まり、
再び輪になって話し込んでいる。

わたしはその隣で、お人形のように黙って座っていた。

――何の感情も浮かべず、
ただ、笑っているふりをして、そこに居た。

外の空が、藍色へと染まっていくのが見える。
硝子窓の向こうに、ほのかに風が揺れているのが見えた。

頬にかかる髪を指で梳き、わたしはそっと口を開いた。

「……少し、外の空気を吸ってきてもいい?」

母は一瞬だけこちらに目を向け、
「……ええ」と、短く頷く。

それだけで、わたしは立ち上がった。
何も言わず、何も振り返らず、
そのまま、静かに会場を抜けて――

硝子の扉の向こうへと、足を踏み出した。


夜の帳が、そっと館を包み込んでいた。

大広間のシャンデリアは、まるで星の残光のようにまだ煌びやかだったけれど――
そこから一歩外に出るだけで、空気は一変する。肌に触れる夜風がひんやりとしていて、胸の奥を静かに撫でていった。

硝子の扉を抜けて中庭に足を踏み入れたのは、ほんの気まぐれだった。
庭園の灯は抑えられていて、薄明かりのランタンが小さくぽつぽつと瞬いている。

――静か。

それが、何より心地よかった。

私は石畳の端を歩きながら、少し奥のほうへと進んでいく。
視線の先には、薄暗い木陰と、揺れる芝の波。そこに誰かがいる気配は、ない。

(……このまま、誰にも見つからなければいいのに)

そう思った瞬間だった。

「……ほぉん、逃げ出したんじゃなくて、サボりに来たってわけか?」

くぐもったような声が、闇の中から降ってきた。

――振り返ると、例の男がいた。

広間の窓辺で、勝手に話しかけてきたあの“男”。
……いや、正式にはまだ名乗り合ってもいない。ただ、視線の先にその姿がある、というだけで――
私の中で、空気の温度が変わる気がした。

「別に……話しかけられたくて、ここに来たわけじゃないんだけど」

夜気に溶け込むような小さな声で、私はそう返す。
それでも彼には聞こえていたらしい。ふっと笑う息が、耳に届いた。

「へぇ。俺と話すのがそんなにイヤか?」

「……うん」

「ははっ。素直で結構。だが、そう言われると逆に構いたくなるのが、人の性ってやつでな」

うっとうしい、と思った。
でも、どこか心のどこかで、“慣れてしまった”感覚があるのが、もっと腹立たしい。

「で、お前……名前、なんだ?」

さらりとした問いかけだった。

でも、私は答えなかった。少し間を空けて、目を逸らす。

彼はそれを見ていた。けれど、無理に聞き返してはこない。
ただ、低く、笑いを含んだ声で――

「……まぁ、無理に答える必要は無いけどよ」

とだけ言った。

(……なんなの、それ)

どうしてだろう。ちょっとだけ――
胸の奥が、ざわっとした。

そのとき、木陰のほうから、さらさらと草の音がして。

「……あんたら、うるさいんだけど」

芝の向こうから、ゆっくりと人影が起き上がった。

(……え?)

黒髪に、眠たげな目。式服の上着は脱ぎ捨てられていて、草の上で寝ていたらしい。
私はその顔を知らない。けれど、“男”の顔が、ほんの一瞬だけ変わったのを見た。

「……兄者、なんであんたがここにいるわけ。こっちは気持ちよく寝てたんだけど?」

「……寝床が芝ってのもどうかと思うがな、凛月」

(凛月――)

その名前を、“男”が口にした。

弟、なのだろうか?
それとも――ただの知り合い?

「……あんた、誰?」

眠たげな赤い瞳が、こちらを向いた。
言葉は刺々しいが、どこか気の抜けた響き。

私は黙って、その視線を受け止める。

彼は小さく肩をすくめると、やれやれと言わんばかりに草を払って立ち上がった。

「ふーん。ま、いいや。じゃあ俺、戻るから。」

そう言い残して、ふらふらと館の方へと戻っていく後ろ姿。

(……なんだったんだろう、あの人)

ぽつんと残された私は、ふと、隣にいる“男”を見上げる。

彼はといえば――

「なぁ、ぽつんと、ふっと。
(名前)の肩から、力が抜ける。

さっきまで張り詰めていた糸が、するりと解けていく。お前。さっきから妙に口が堅ぇな?」

また、からかうように笑っている。

「……うるさい。関係ないでしょ」

それだけ言って、くるりと背を向けた。

「お嬢様〜!こちらにいらっしゃいましたか、奥様がお戻りになるようにと」

メイドが私に言う。

小さく頷くと、背中に感じる視線を無視して、私は再び広間へと戻っていく。

足音が、石畳に消えていく。

(これで、もう終わり。……たぶん、二度と会うこともない)

なのに、どうして――
その背中に、何かが焼きついて離れないのだろう。

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