あなたの下の名前が消えたリビングは、驚くほど静かだった。
さっきまで同じ空気の中で笑っていた気配が、
跡形もなくなってしまったように感じる。
けれど───
胸の奥には、確かに“温度”が残っていた。
涙が落ちた頬も、腕の中の空しさも、
どれだけ濡れているようでいて、どこか温かかった。
まるで身体のどこか深い場所に、
あなたの下の名前がそっと灯りを置いていったようだった。
ハヤトはゆっくりと立ち上がる。
あなたの下の名前が最後に立っていた場所へ、無意識のうちに歩み寄る。
床に落ちた光がひとつ、きらりと揺れた。
それは残された涙なのか、ただの陽の反射なのか、ハヤトには分からなかった。
手を伸ばす。
そこには何もない。
けれど、指先がかすかに震えた。
ほんの少し── 本当に少しだけ、
温度の名残が触れたような気がした。
深く息を吸い込む。
胸の奥に痛みが走る。
でも、その痛みすら、どこか愛おしい。
失った苦しさではなく、
触れられた奇跡の痛みだった。
ハヤトはそっと目を閉じた。
あなたの下の名前が笑っていた顔、泣きそうな顔、照れた顔。
どれも輪郭が色濃く浮かび上がる。
「未来に幸せがありますように」
最後に聞いた声が、耳の奥で柔らかく響いた。
あなたの下の名前が残した祈りのような言葉が、
喉の奥でゆっくりと溶けていく。
ハヤトは窓を開けた。
淡い夏の風が部屋に入り込む。
カーテンが静かに揺れる。
その揺れに、あなたの下の名前の影がふと重なって見えた。
もう戻ってはこない。
でも、それでいいのだと思えた。
大事なものは、消えてしまったんじゃない。
理解し合ったまま、確かに未来へ送り出されたのだ。
そんな気がした。
風が頬を撫でていく。
その瞬間、またあの温度が──
ほんの一瞬だけ蘇った。
ハヤトは小さく微笑む。
その言葉は、祈りではなく、もう決意だった。
振り返らず、でも忘れずに生きていくための、一歩目。
静かに閉じた目の裏には、
あなたの下の名前が最後に見せた笑顔が、やわらかく揺れていた。













編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!