第98話

「朝のあいさつの日」
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2025/12/29 11:00 更新








その日は特別な予定も記念日も、なにもない朝だった。











ただ、少しだけ――
俺の中の何かが、いつもと違った。

















目が覚めた瞬間、
一番最初に視界に入ったのは、やまとの寝顔だった。











同じベッド。










カーテン越しの朝の光。











静かで、あったかくて、
昨日の夜の余韻が、まだ部屋に残ってる感じ。












「……やまと」












小さく名前を呼んでも、起きない。
眉間にちょっとだけシワ寄せて、完全に熟睡してる。











……可愛い。











俺は、ゆっくり身体を起こして、
しばらくその顔を眺めてた。











寝てるときのやまとって起きてるときより無防備で、
肩の力が抜けてて、たまに子どもみたいで。










普段なら「起きて」って声かけるか、
そっとベッドから抜け出すか、
どっちかしかしない。









――なのに。









その日は、
なぜか胸の奥が、むずむずしてた。









理由は分からない。
でも、なんとなく、「今ならしてもいい気がした」













俺は、そっとベッドを降りて、
洗面所で顔を洗った。









冷たい水で目を覚まして、鏡の中の自分を見る。










「……なにやってんだろ、俺」










小さく呟く。







だって俺、
普段は“朝からベタベタするタイプ”じゃない。









むしろ照れ屋だし、
自分からスキンシップ行くのは苦手だしキスなんて、
ちゃんと雰囲気があるときじゃないとできない。








それなのに。








歯を磨きながらさっきのやまとの寝顔が
何度も頭に浮かぶ。










「……おはよう」









そう声に出してみる。









それだけで、
なんだか胸がきゅっとした。













キッチンで簡単にコーヒーを淹れて、
トーストを焼いて。









部屋に戻ると、
やまとはちょうど起きかけだった。









「……ん……」








寝返りを打って、
片目だけうっすら開いてる。








「やまとおはよ、」









俺は、いつも通りのトーンで言った。









「…ん~…おはよ……」









やまとの声は、まだ低くて、掠れてて。
完全に寝起き。









俺はベッドの横に立ったまま、一瞬、迷った。










今なら、引き返せる。












何もしないで、
「朝ごはん一緒食べよ」って言えばいい。









でも――









心臓が、
ちょっとだけ速かった。
















俺は、ほんの一歩、近づいた。










やまとが、
「?」って顔で俺を見る。








「……なに?」










その一言で、
覚悟が決まった。










俺は、やまとの頬に手を添えて――










軽く、ほんとに軽く、
唇に触れた。










ちゅ、って音がするかしないかくらい。








一秒もない。









それなのに。












「………………は?」









やまとが、完全にフリーズした。












目、見開いてる。

口、半開き。

思考停止。











俺は自分でやっといて、
自分の心臓の音にびっくりしてた。











「……おはよう、の……あいさつ」











震えそうになる声で、そう言った。










数秒。







沈黙。










そして――










「……ゆうた?」









「な、なに……」










「今の……」








「だから、あいさつ……」









「…え…夢?」











「現実だけど」










「……え?……は?」










やまとは自分の唇に指で触れて、
もう一回俺を見る。











「……ゆうた、熱ある?」









「ない」










「頭痛い?」









「ちがう」










「……じゃあ、なんで?」











そこまで言われて、
俺は、やっと恥ずかしさが爆発した。











「わ、分かんないけど……!朝だし…なんか
……したくな…って……!」










布団をぎゅっと掴んで、顔が熱くなる。











「……普段しないの、分かってるから……
だから、余計に……」









そこまで言って、
言葉が途切れた。











やまとはゆっくり起き上がって、
俺と目線を合わせる。









その顔が――
さっきまでの寝ぼけたやつじゃなくて。















「……びっくりしすぎて、心臓止まるかと思った」









低い声。








「ご、ごめ……」








「でも」









やまとは俺の顎に指をかけて、
逃げ場を塞ぐ。










「朝一でそれは、反則だろ」










「……え?」











次の瞬間









やまとが、さっきより少し長めに、
でも優しくキスしてきた。










ちゅっ、じゃなくて、
ちゃんと“ちゅー”。











「……あいさつ返し」











俺の頭が、完全に真っ白になった。















「……っ、やま……!」









「なに、仕掛けたのはお前だろ」










「ち、違…っ…!」











「違わない。普段やらないこと急にやるから
まじで心臓に悪い」









そう言いながらやまとは俺を引き寄せて、
額をくっつけた。










「……朝から、可愛すぎ」









「……もう、しない」










「嘘」









「ほんと……」










「じゃあ、次は俺からな」










「……え?」









「“朝のあいさつ”たまには悪くない」









そう言って、
やまとは俺の髪を撫でた。
















結局そのあと俺たちはベッドに座ったまま、
しばらくくっついてた。









コーヒーも冷めてトーストもそのまま。










「……ゆうた」









「…ん」









「無自覚で人殺すの、やめろ」









「殺してない」









「今朝の俺は死んだ」









「……大げさ」









「本気」









でもやまとの声は、すごく優しかった。















普段だったら絶対しないこと。









それをしただけで一日の始まりが、
こんなにもあったかくなるなんて。









「……また、してもいい?」










俺が小さく聞くと、やまとは即答だった。










「ダメって言うと思う?」









「……言わないね」










「だろ」















朝のあいさつは世界を変える。









少なくともこの日の俺たちには、
それくらいの威力があった。









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