ぐにゃりと反転した世界。
白黒のチェス盤が広がり、巨大なぬいぐるみやチェスの駒が重力を無視して浮遊する
異能空間『ジャックポットサッドガール』。
いつもなら依頼人を隠すため、あるいは敵を排除するために開くこの狂気のメルヘン空間の片隅に、今、俺は一人で立っていた。
小さく呟き、右手を差し伸べる。
空間の歪みから、カタカタと音を立てて引き寄せられてきたのは、いくつもの無骨な本棚だ。
そこに整然と並ぶ無数の本。
そこにびっしりと書かれた文字
これらは元々、現実世界から俺が手作業で持ち込んだ、ページがすべて白紙のノートだった。
ここにある夥しい数の文字は、すべてあなたが、あの河川敷で濁流のように脳内に流れ込んできた『別世界線の記憶』
忘れてはいけないその無数の情報を血を吐くような思いで書き殴ったもの。
これは、俺にとっての勇者の剣であり、呪いそのものだ
⚠️ここから先、原作のネタバレ注意⬇️
手元に飛んできた一冊の重い本を掴み、乱暴にページをめくる。
ペラッ
インクの匂いと共に、俺自身の筆跡で書かれた最悪の男の記録が目を穿った。
【フョードル・ドストエフスキーの異能】
『自身を殺した相手が、次のフョードル・ドストエフスキーになる能力』。
精神の連続性、肉体の乗っ取り。殺意を以て彼を排除した者は、その瞬間に内側から、そして外側までも“魔人”へと塗り替えられる。
ポツリと零れた声は、酷く冷えていた。
前世という泥濘から、気づけばこの世界へ肉体と精神を移されていた俺。
手段や意味は違えど、他人の肉体や新たな人生へ精神が滑り込み、本性を隠して生きるその在り方は、あの悍ましい魔人とどこか奇妙に重なって見えた。
ヘドが出るほどのシンパシーだ。
そんなところを似てほしくなかった
だが、そんな冷めた思考は、次に開いたページによって一瞬で粉砕される。
【福地桜痴の死因】
フョードル・ドストエフスキーの異能(乗っ取り)を止めるため、一瞬の隙を突きフョードルの首を刎ね、同時に自身の腹を切り裂いたことによる「心中」。
――此の作戦の立案者、太宰治。
文字を目にした瞬間、指先が、腕が、全身が激しく震え始めた。
未来の大戦を防ぐため、血の雨を降らせてまで世界平和を成そうとした、歪んだ英雄の背中。
その崇高な覚意すらもフョードルの罠に利用され、最終的に自らの命を絶つことでしか魔人を止められなかった最期。
そして、それを冷徹に「正解の盤面」として描き出した、武装探偵社の悪魔的な頭脳。
それを、止められなかった己への憎悪
ポタッ……
ポツッ……
ポロポロ……
視界が急速に滲み、ボトボトと、白い紙の上に大きな涙の粒が零れ落ちて、黒いインクの文字を滲ませていく。
なんで。
なんであの時――別世界線の俺は、あと一歩、届かなかったんだ。
なんであんなに必死に走ったのに、遅れてしまったんだ。
血を流し、腹を切って倒れる隊長の元へ、どうして間に合わなかった。どうして、誰も守れなかった。
――あの悲惨な光景が、網膜の裏で何度も何度も、狂ったようにフラッシュバックする。
…………………なんで、俺を救ってくれた英雄を守れなかった
いつもなら120デシベルで空間ごと爆破するような大騒音を鳴らすはずのスマホが、今は異能空間の地面に転がったまま、ノイズの混じった、酷く静かな声をスピーカーから漏らしていた。
誰に対してもタメ口で、俺様系を崩さない我が相棒。その黄昏が、今ばかりは、本当に心配そうに俺の「本名」を呼んで文字を、声を震わせていた。
涙を袖で乱暴に拭い、本を力任せに閉じて本棚へと送り返す。
前世の鎖から逃れ、掴み取ったはずの新たな人生。
だが今の俺の精神は、3つの仮面を使い分ける過酷な二重生活と、脳内に焼き付いた凄惨な未来の記憶によって、内側から確実に軋み、壊れ始めていた。
救わないと
守らないと
防がないと
………………たった一つの、俺が生きる意味を守らないと
そのためならば、地獄にだって喜んで行ってやる
その少女は、また静かに傷だらけの仮面を身に着け、前に進んでゆくのであった














編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。