異物を知らせる緑の線と、それを伝える僕の声。
どちらとも、まるで相手にされなかったことを、よく覚えている。
──目の前が真っ白に染まって、誰かの怒号が、それよりも大きな音で掻き消される。
息を吸い込めば海水が入り込んで思わず咳き込み、貴重な酸素を無駄にした。
なにも、聞こえない。
戦火は遠くの出来事で、深い海の底までは追いかけてこない。
揺らぐ水面を遮るように、大きな影が視界を黒く染めた。
僕に影を落として悠々と泳ぐクジラに、手を伸ばす。
そんなことを伝えようとして伸ばした手を、僕よりも大きな手に掴まれて、強く引かれ──
軍の起床時間は、朝陽が昇るよりも早い。
組織全体に響くアラームが鳴り始める一瞬前の、スピーカーの電源が入る微かな音に、僕は目を覚ました。
……ずいぶんと、昔の夢を見ていた。
懐かしくはない。
どちらかといえば、僕にとってあれは苦い記憶でしかないのだから。
寝癖を整え、黒い軍服に袖を通す。
部屋を出る前に鏡の前に立ち、全身を確認する。
軍服に乱れはなく、最後に、鏡のなかの自分と目を合わせた。
そこに、嘗て両親が褒めてくれた海の色は無い。
あるのはただ、澱みきってしまった翡翠色だけ。
それを惜しく思ったことはない。
僕はただ、成すべきことを成しているだけ。
例えそれが、自分の意に反することだとしても。
目を逸らして、軍帽のツバを深くまで引き下ろす。
慌ただしく朝の支度をする隣室からの音を聞きながら、僕はいつも通り、上官の顔を貼り付けて部屋の外に出た。
朝の食堂は、それなりに賑わいを見せる。
熾烈な訓練で疲弊した夕食時と、その熾烈すぎる訓練を朝まで持ち越す場合以外は、だが。
受け取り口でトレーにのった朝食を受け取って、空いていた席に座る。
そうすれば、僕の周りには基本的に誰も座ってこない。
僕が騒がしいのを苦手とすることを知る者が一割。
〝戦争〟が終わってから入軍した、上官としての僕のみを知る者が一割。
そして例外、一割。
こちらが例外である。
ドカッと遠慮なく隣の席に座って肩を組んできた青年──陽。
僕が率いる中隊に配属されて一年目、入軍して三年目の軍員だ。
入軍理由は正義感が四割、働きたくなかったからが六割だと、以前酔いつぶれた陽から聞いた。
別に僕はそんなこと尋ねてなかったけど。
うざ絡みをされたので、口のなかのものを飲み込んでから首を傾げれば、陽が反論してきた。
話しつつも、短い時間のなかで食事は進めている。
軍員の栄養面に気を配った──栄養面にだけ気を配った料理は、万が一毒が盛られていても気付けるようにと、冷めきっている。
温かい食事をとれるのなんて、野外訓練で自炊をしなければならないときくらいなものだ。
飲んでいた水を噴き出した陽が、途端に顔色を変えて周囲を窺う。
心配しなくても、僕のそばで食事をする変わり者なんて陽くらいなものだと言うのに。
青くなったり赤くなったりと忙しない陽に、僕はからかうつもりで、微笑んで追撃をした。
「くそぉっ、この地獄耳が……!」と隣で嘆く陽を横目に、僕は空になった食器の前で手を合わせる。
僕を引いた目で見てくる陽に、溜息を吐いて立ち上がる。
我ながら変な言い方をしたが、仕方ないとは思う。
入軍して、〝あのとき〟からずっと──僕は親しい人間をつくらないつもりで生きているのだから。
成績だけを上げ続け、笑わずに、話さずに。
スタンリーは別として、陽のようにぐいぐいとやって来る人は他にはいない。
お陰様で、大体の軍員には〝地獄耳の鬼上官〟として避けられている。
ところで〝鬼〟はどこから来たのかがつくづく不思議である。
笑わない話さないで言うなら、スタンリーのほうがずっと怖いと思うんだけど。
まぁ確かに、小さいときのスタンリーは凄かった。
初めて見たときは女の子かと思ったほどだ。
食器を返却しながら、そんなことを思う。
──コッ、と机を指先で軽く叩く音。
それが短い間隔で、三回。
僕は訓練場に向かおうとしていた足を、別のところに向けた。
軍邸の奥まったところにある、他の施設から離れた部屋。
息を浅く吸って、指先でノックをする。
数秒の間のあとに、「入れ」と低い声が聞こえた。
西諸国統一軍大将──スタンリー・スナイダー。
史上最年少でその肩書を得た彼は、大将に与えられた執務室で僕のことを待っていた。
入り口に向けられた執務机と、その背に大きく設置された窓。
軍邸のなかでも上層に位置するこの部屋からは、国の景色がよく見える。
その窓際で支援をくゆらせていたスタンリーが、僕に書類の束を差し出した。
その手には、黒い皮手袋がされている。
それはまた珍しい任務もあったものだと、受け取ってそれらをめくる。
そこに載せられていたのは、まだ年端もいかぬ少女の情報。
顔写真は載せられておらず、そこに示された名前に、僕は眉を寄せる。
その名前を、僕は知っていた。
──嘗て、数百年続いていた西と東の大戦。
その終戦条約として、東国から西諸国に差し出されたひとり少女。
けれど受け渡されて一年、西諸国は彼女を「死亡した」として、東国に報告をした。
けれど今、その名前の横に書かれていたのは。
そこに書かれていたのは、「逃亡の後、消息不明」という文章。
逃げたなんて話は、当時軍に所属していた僕も初耳の話だった。
僕の耳で、噂話としても知らなかったこと。
よほど秘密裏に処理されたのだと、それだけでわかる。
そして、任務書の最後の一文。
「彼女の捕獲。及び、生死は問わない」。
だとしても、とそれを見て僕は食い下がった。
煙草に口をつけ、開かれた窓から外に紫煙を吐き出す。
ぷかり、とその煙が輪になって、消えた。
灰の部分が長くなった煙草を、灰皿の隅に軽く叩きつけ、灰を落とす。
煙草の火を押し付けて消す音が、やけに大きく耳に響いたような気がした。
この──スタンリーの、猛禽類を思わせるような視線が、僕は昔から苦手だ。
ぎゅ、と気づかぬうちに力を込めた手のなかで、紙にシワが寄った。
──彼女が死んだとされたことで、西と東は形ばかりの終戦のまま、互いに睨み合う冷戦を続けている。
暴力組織が活発になれば、その分国民の戦争への賛成が高まっていく。
そしてもし、彼女の存在が東に渡れば、まず間違いなく戦争が再び始まるであろう。
西諸国が、なぜそうまでして彼女を求めたのかは知らない。
けれど、数百年に及ぶ大戦をたったひとりの命で終わらせるのだから、彼女にはそれだけの〝価値〟があるということになる。
彼女を生きて連れ帰れば、やはり戦争への意欲は高まるのだと思い、僕は奥歯を噛み締めた。
あんな地獄を見るのは、もうご免だ。
そして上も、この書類から見て、再戦を強く望んではいないのだろう。
これは、つまり。
それ故の、僕の単独任務だ。
暗殺に特化しているのは、優れた狙撃術を持つスタンリーのほうだ。
けれど、大将の席を一時でも空けるわけにはいかない。
だから僕に、白羽の矢が立った。
軍帽を胸に抱き、深々と頭を下げる。
数秒後、頭を上げてスタンリーに背を向け、部屋から出ようと扉に手をかけたとき。
そう声をかけられ、僕はふっと表情の力を抜いて振り向いた。
振り向いて尋ねれば、スタンリーは小さく笑って、英語で言葉を続ける。
仕事上、公の場や形式を重んじる場では、互いに大将と中将として。
けれどこうやって、スタンリーが彼の母国語で話しかけてきたときは、個人的な会話をするときだけだ。
西諸国は、さまざまな人種の人間が暮らす統一国家であり、一部の地域では、話す言語が違うこともある。
意思疎通が出来ないのが困るとして、そういう地域の子供は軍に引き抜かれなかったのだが──言語の壁を無視してでも引き抜きたいと上が切望したのが、スタンリーと、もうひとりである。
だから、スタンリーの母国語を理解できるのは僕を含め極わずか。
秘密の話には、もってこいなのだった。
スタンリーは懐から出した煙草の箱を振って、新しく一本を引き出す。
それに火をつけ、しばし味わってから、僕の目線に気がついて薄く笑った。
悪戯が成功した子供のように笑う彼に、僕もつられて笑う。
ぽう、と煙草の先が赤く輝いて、勢いをなくし、煙を細く伸ばす。
煙草を咥えたまま笑っていたスタンリーが、ふいに煙草から口を離して、声音を変えた。
あっけらかんと言い放ったスタンリーに、そうだね、と僕は頷いた。
話は終わりだとばかりにひらひらと手を振るスタンリーに、今度こそ僕は執務室を後にした。
書類に書かれていたことを頭に叩き込み、自室に戻ると、僕は書類の端にライターで火をつけた。
めらめらと燃え上がる火が僕の指まで届きそうになり、手を離す。
空中で燃え尽きたそれを眺めて、僕は壁にかけてあった刀を腰に差し、続いて隣にあった銃を差す。
訓練場に顔を出せば、談笑をしていた軍員が静まり返った。
静寂のなかでもまだ騒がしく、他の軍員に窘められていた陽に近付く。
訓練場を出てしばらくしてから、陽の嬉しそうな叫び声が聞こえてきた。
……陽くんの時代は別に来てないと思う。
聞こえた内容に苦笑をもらしながら、そんなことを考えた。
軍邸の外に出れば、見慣れた街並みが広がる。
かつては戦火に呑まれかけたこの街も、今ではあちらこちらで笑みが溢れていた。
言い聞かせるように、口に出す。
もう二度と、戦争を始めさせはしない。
そう決意して、空を見上げる。
少なくとも、完全に戦争の火種が潰える、そのときまで。
僕の代わりに誰かが死ぬなんてことは、あってはならないことなのだから。
そう考えた言葉は口に出さず、僕は街のなかの人混みに紛れ込んだ。












編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。