都会の喧騒や、誰かの期待。
気がつくと、私はいつも自分じゃない誰かの歩幅に合わせて、必死に息を切らしていた。
__もっと、速く。もっと、上手く。
そんな焦燥感で頭がパンパンになった夜、部屋のドアを開けると、
そこには私とは正反対の、ゆったりとした時間が流れている。
部屋着姿の彼が、ソファの上で器用に足を組んで、ふにゃりと笑った。
彼はよんでいた本に栞を挟んで立ち上がると、無言で一本のお香に火を灯す。
立ち上がる細い煙。スピーカーから流れる、名前も知らないスローな曲。
彼のその一言で、私の止まっていた心臓が、ようやく自分だけの速さで脈打ち始めるのを感じた。
彼が纏う空気なのか、何かあった時によく焚いてくれるこのお香を香りなのか、
ここにくるとなんだか落ち着いて本当の自分でいられる。
そう言って笑いかけてくれたおかげでさっきよりだいぶ落ち着いてきた気がする。
やっぱり彼が纏う空気が原因なのかもしれない、なんて頭の片隅で考えていると
彼はさっきまで読んでいた本を本棚に戻してソファに座った。
そして彼は何も言わないでクッションを整えていた。
布が擦れる音と、知らない曲の重なりが、「座りな ?」って言ってるように聞こえてくる。
その幻聴に従って整えられたクッションの隣に座ってみる。
するとなんだか暖かくて心が和んだ。
でもいつもの無言の部屋だったら落ち着くのに、
今の部屋はちょっぴり心細くなりそう。
彼が少し考えたような顔をして少ししてから、
といって、長い腕を伸ばして、私の頭をそっと自分の胸元へと引き寄せた。
鼻先を掠める、お香と柔軟剤が混ざった彼の匂い。
耳元で、トクン、トクンと、驚くほどゆっくりとした一定のリズムが響く。
彼の胸の鼓動は、焦っていた私の心臓をあざ笑うわけでもなく、
ただそこに「正解」として存在しているみたいだった。
私の頭を大きな手でゆっくりと撫でながら、彼は私の耳元で囁いた。
彼の鼓動を聴いているうちに、不思議と私の呼吸も深くなって、
さっきまであんなに苦しかった「速さ」がどうでもよくなっていく。
彼の「となり」で、私はようやく、自分だけの速さで歩き出すための準備ができた気がした。
お香の白い煙が、ゆっくりと空気に溶けていくのを眺めながら、彼はぽつりと呟いた。
彼の話し方は、いつも少しだけゆっくりで、独特の「間」がある。
でも、その隙間に私の焦りや不安が吸い込まれて、消えていくのが分かった。
背中に伝わってくる彼の体温と、心地よい音楽。
彼の腕の中で、私は小さく頷いた。
彼の穏やかな鼓動を子守唄にしてゆっくり瞼を閉じる。
きっとこれでどんな日だって私だけのリズムを取り戻せる。
彼が”一番お気に入り”と言ってくれたリズム。
世界がどんなに急いでも、この部屋に流れるリズムだけは、ずっと私のお守り。












編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。