ある寒い雪国の寒い季節、その少年は河に落ちた。
橋の上から落ち、水面に叩きつけられ、沈んだ。
少年はその凍えと衝撃、息苦しさに眉をひそめたが、それだけだった。
藻掻くことも足掻くこともせず、ただ死んだ。
動機、理由として、少年が人生に絶望していたから、と言えばきっと納得できるだろう。
親の顔を見る前に捨てられ、目的も目標も無くただその日を乗り越える。
そんな日々に擦り切れ、疲れていたと言えば表面上は得心だ。
しかしそれはあくまで表面上。
その少年はきっと、誰より恵まれた人生であったとしても死に対して抵抗しなかっただろう。
どんな人生だろうと、どんな環境だろうと、どんな状態だろうと、どんな過去だろうと、どんな心境だろうと、どんな背景だろうと、どんな心情だろうと、どんな苦痛だろうと、どんな恐怖だろうと、どんな精神だろうと、どんな情景だろうと、どんな思考だろうと、どんな場所だろうと、どんな状況だろうと、どんな未来だろうと、どんな身体だろうと、どんな人物だろうと、どんな性格だろうと、どんな神経だろうと、どんな人間だろうと。
死を受け入れ、拒否せず、その死を口に含み嚥下しただろう。
死は嫌だが怖くはない。
それがその少年であって、本質だった。
それは周りから見れば些細な本質だったが、確かな異質感と異物感を持たせる本質だった。
人間性と呼ぶには脆く、性質と呼ぶには弱く、性能と呼ぶには小さかった。
そしてその本質を持った少年は、変わった。
作り替えられた。
確かに少年だが、精神の最も重要な部分が犯され侵されてしまった。
それまでは異質ながらも、グラタンと蝶々が好きなただの子供だったのに。
人でない、でも怪物でもないただ一人の存在になってしまった。
その少年には新しい名前が付けられ、人という記号は過去の物となり、番人となった。
誰も知らない、過去のお話。
「眼帯の魔法使い」の、昔のお話。
シンタは自身に何が起こっているのか、考えても分からなかったし、考えもしなかった。
目の前の少年が何かを強制的に理解させられた。
それからずっとこうなのだ。
頭がぼんやりとし、思考は霞み、意識はぼやける。
冷気を纏う少年、「眼帯の魔法使い」は続ける。
シンタに話してはいるが会話はしていないらしい。
会話が終わった。
シンタは質問するのが無駄なのだと理解しているのか何も聞き返さない。
質問をしてもどうせ要領を得ないし、それならまだAIに話しかけた方が有意義というものだ。
「眼帯の魔法使い」はシンタににじり寄る。
「眼帯の魔法使い」は質問を投げ掛ける。
今のシンタに、その明確な質問から逃れる術は無い。
逃れようと藻掻いたとしても、その視線と圧倒的な力によって更に強制力が増すだけ、それだけが幼い脳で理解できる。
恐らく現時点で誰よりも。
しかしそんなことよりも「眼帯の魔法使い」が即答したことに、頭の隅と意識の裏側で驚きを感じる。
シンタはその名前にやっと反応らしい分かりやすい反応を示す。
何故保育園児相手にその例えなのか。
シンタの体は強ばる。
一瞬痙攣するかのようにビクリと体が動く。
「眼帯の魔法使い」はシンタの頬に触れる。
両手で両頬に触れ、視線を逸らすことができないようにする。
体温の無い、氷のように冷たい手がシンタの頬の温度を奪う。
シンタはその話、声から逃れようとする。
しかし逃れられない。逃げ場は無い。
話は続く。
話は続く。
話は続く。
話は続く。
話は続く。
ようやっと、話は止まった。
息継ぎなんて必要無いのに、酸素を吸う真似事までする。
その体はもう生命活動なんてしていないのに。
シンタの下瞼にそっと指を這わせる。
「眼帯の魔法使い」はそこでやっと手を離す。
シンタは冷えた頬を自分の手で触れる。
体温は奪われ、冷えて「眼帯の魔法使い」の体温に近い。
「眼帯の魔法使い」はただ黙ってシンタを見ていて、その目は硝子玉のようにがらんどうだが、何かを確かに見ている。
シンタを通して何かを覗き込んでいるのだ。
シンタは緩慢とした、ゆるりとした動作で歩き始める。
「眼帯の魔法使い」は手を差し出し、シンタはその手を取る。
瞬間、シンタと「眼帯の魔法使い」の歩く先に透明な蝶々が一匹現れる。
透明な蝶々は透明でありながら確かな存在感で、シンタと「眼帯の魔法使い」の前を飛ぶ。
どうやら「眼帯の魔法使い」の服から出てきたらしいそれに、シンタはそっと触れる。
触れられた瞬間にその蝶々は粒子となり、光の粒が舞う。
光の粒はやがて大気に溶けて見えなくなったが、粒子の輝いていた場所はその名残のように空間がおかしなことになっている。
燃え盛る炎の真上を見ている気分になる、空間の揺らめきだ。
シンタは黙って「眼帯の魔法使い」に手を引かれ、その空間の揺らめきに身を投じる。
入って感じたのは、強い衝撃。
直接的、暴力的な類ではない。
頭の中を抉り、思考を阻害し、意識をほじくろうとする衝撃だ。
しかし数秒でそれは終わり、何時の間にか知らない場所に立っていた。
元来臆病者なシンタが持っていた知らない場所への恐怖すら、今やもう無い。
隣に立っている「眼帯の魔法使い」は、一切の抑揚の無い声で、目の前の人物に話し掛けた。
目の前の光景が信じられない。
そんな経験は、ハヤテやマドカの短い人生にだって何度もあった。
例えばゆぅろぴあで初めてゲームオーバーを見た時。
例えば初めて人を殺した時。
脳が理解を拒む光景、情景。
それは誰であろうと平等に人の思考を止めてくる。
丁度今のハヤテ達のように。
マドカの口から思わず零れた言葉にシンタは反応しない。
シンタは虚ろな目で「眼帯の魔法使い」の隣に立っている。
数分前、いざ「眼帯の魔法使い」の所に向かおうとした矢先に空間が歪み、シンタと「眼帯の魔法使い」が出て来たのだ。
シンタは何を言うでもなく、ハヤテ、マドカ、ライオン、ゾーヤ、ヒカルを順番に見る。
情報屋が「眼帯の魔法使い」に近付く。
「眼帯の魔法使い」はゆっくりと口を開き話し始める。
唐突な長台詞に皆が首を傾げる。
呼吸が必要無いからだろうか、その言葉は途切れることを知らない。
しかし「眼帯の魔法使い」が長々と語った話の内容は、皆の頭に入ってこない。
その関心はシンタに向けられている。
ヒカルがシンタに駆け寄る。
シンタはヒカルがシンタの手を掴もうとすると、咄嗟にその手をはたき、そのまま二歩後ろに下がった。
ハヤテはナイフを出す為にポケットに突っ込んでいた手を出す。
その言葉に、シンタと陽一が反応する。
陽一はマリアも持っているバーベキュー用の串を取り出す。
そう言うと、陽一は串を「眼帯の魔法使い」ではなくシンタに向けて投げる。
串は真っ直ぐ飛ぶ。
ライオンは咄嗟に弓矢を構えるが間に合わない。
串はかなりのスピードで、弓矢を当てて落とそうとしても速度が足りない。
しかしその状況でも、シンタに弓が刺さることは無かった。
何故なら。
シンタの体から出た蝶が、空間を歪ませ串を止めていたからだ。
先程シンタ達が出てきたそれによく似ている空間の揺らめき。
蝶々は残酷なまでに光り輝いていて粒子を撒き散らしている。
普通の人間が服の中から出して良いものでは無い。
一番に行動したのはライオンだ。
「眼帯の魔法使い」に向けて矢を放つ。
マドカもそれに合わせ発砲する。
避けにくいように別々の位置から放たれたその攻撃は、「眼帯の魔法使い」の顔、ひいては片目を正確に狙っている。
しかし「眼帯の魔法使い」には当たらない。
「眼帯の魔法使い」が凄まじい冷気に包まれたかと思えば、巨大な氷の壁が出現したから。
そんな仕事モードの仕事人は嫌だ。
「眼帯の魔法使い」の表情、仕草は完全に日常生活のそれに近い。
つまりこれは「眼帯の魔法使い」にとって、戦闘ですらないのだ。
ゾーヤがいつの間にか「眼帯の魔法使い」の背後にいる。
そしてギリギリまで接近した。
ギリギリまで接近した上で小型の爆弾を投げる。
「眼帯の魔法使い」の反応が一瞬遅れる。
「眼帯の魔法使い」が口を開いたが、爆弾がチリッと火花を見せ起爆。
爆風と衝撃が巻き起こる。
ヒカルは大きくなったハンマーを力強く握りながら情報屋を横目に見る。
皆の意識の外に居たシンタが言う。
シンタの手元から輝く蝶々が生み出される。
煙が急速に晴れる。
「眼帯の魔法使い」には傷一つ付いていない。
しかし服は多少ほつれている。
シンタの蝶々が「眼帯の魔法使い」の元へ飛んでいき、服のほつれた箇所に止まるとその箇所は綺麗に直る。
メタい。
洗脳技術は侮れない。
普通の人間でも使えるし、素直な人間程かかりやすい。
しかもその効果は絶大。先入観や人生観、価値観、考え方や敵味方の認識まで操れる。
シンタは根が素直なので洗脳がかかりやすい人間トップスリーに入るだろう。
しかし「眼帯の魔法使い」は首を横に振る。
シンタもぎこちないながら頷く。
シンタは虚ろな瞳でありながら確かな意思を滲ませ、一同に向き直る。
シンタはグッと拳を握り締めている。
「眼帯の魔法使い」がやんわりと手で制止する。
言い合いは止まる。
陽一がすす、とハヤテ達に近付き囁く。
情報屋はそれを聞き、珍しく、本当に珍しく困ったような悔しがるような、苦虫を噛み潰す様な表情を見せ、ただ困ったような表情に落ち着く。
シンタと「眼帯の魔法使い」を交互に見て、溜息混じりにこう言った。
順序が逆なんだ、と付け加えた情報屋の瞳には、微かに哀れみの念が混ざっていた。



































編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!