ホール練習の次の日、音楽室に入ると、まだ椅子は並んでいなかった。
各パートの楽器ケースが壁際に寄せられていて、床が広く見える。
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いつも通りのミーティングが終わると、管楽器の人たちは楽器と譜面台を持って音楽室を出ていった。
廊下に足音が重なって、ドアが閉まる。
音楽室に残ったのは、打楽器だけだった。
急に、空間が広くなる。
いつも通りのことなのに、その感じが少しだけ新しかった。
凪斗先輩はそう言われてスティックを置いた。
短く返して、早歩きで音楽室を出ていく。
今田先生も音楽室をあとにした。
今日は、打楽器の講師の先生が来る日だ。昨日の練習の帰りに言われたから。今日、部活に来ている木戸羽はこのことを知らない。
講師の先生を待っている間、私たちはそれぞれ準備に入った。
譜面台を動かす音。
マレットを選ぶ音。
チューニングのために軽く叩く音。
いつもより、少しだけ静かだ。
私はヴィブラフォンの鍵盤を拭いてから、顔を上げた。
そのさらに向こうで、木戸羽がシンバルを並べていた。
久しぶりに部活に来た木戸羽が、いつも通りのテンションで、美佑ちゃんのことをいつも使っているあだ名で呼んだ。
美佑ちゃんがチューニングキーを回しながら返事をした
木戸羽は笑って、楽譜を軽く振った。
美佑ちゃんが自慢げに笑った
その会話は、ほんの数秒。
でも、空気が少し軽くなる。
来てなかったとか、気まずさとか、そういうものが入り込む余地はなかった。
美佑ちゃんはティンパニのヘッドを軽く叩いて言った
木戸羽の目が、少しだけ光った。
冗談みたいな言い方だったけど、
それが木戸羽の本音みたいだった。
少しして凪斗先輩が戻ってきて、講師の先生の姿が凪斗先輩の後ろに見える。
その後ろから入ってきたのは、黒いリュックを肩にかけた、肩ぐらいまでの髪を後ろで括ってる見覚えのない女の人だった。
年齢はよく分からない。若くも見えるし、落ち着いても見える。
ニコッと笑いながら挨拶をして、
軽く頭を下げると、先生は前に出た。
その一言で、空気が少し和らぐ。
凪斗先輩の合図で、学年順に名乗っていく。
いつもより声が落ち着いて聞こえた
木戸羽は少し俯きながらしゃべった
全員が言い終わると、川上先生が優しい声で言った。
私たちは課題曲の楽器配置につく。一年生二人はパートがないので、課題曲を演奏する間は待機する。
先生が椅子に座って、スコアを開く。
【2024年度全日本吹奏楽コンクール課題曲Ⅲメルヘン】
メトロノームのカウント。
バスドラとクラッシュシンバルが重なり、ティンパニがソロを演奏する。
————曲が終わると、しばらく誰も音を出さなかった。
最後の余韻が、音楽室の天井に薄く残っている気がした。
その一言で空気が少し緩む
先生が席を立って、みーちゃん先輩の方へ歩く。
みーちゃん先輩が、ほんの少しだけ肩の力を抜いたのがわかった。
続けてスネアの方に向かう
凪斗先輩は軽く頷いた
美佑ちゃんは得意げな顔をした後軽くお辞儀した
先生が私の方を向いた
私は、内心嬉しかった。
川上先生は静かに木戸羽の方へ歩いて行った
木戸羽は静かに頷いた
川上先生がクラッシュシンバルを持って一度叩く。
その音はいつもと全然違くて、音楽室中に煌びやかな音が響いた
木戸羽はうなずいて、同じように腕を上げた。
シャアン
音は出た。
でも、広がらない。
響く前に、どこかで詰まって、重たい音になった。
先生の声は相変わらず柔らかい。
木戸羽は「あれ?」と首をかしげて、もう一度叩く。
さっきよりはましだけど、先生の音とは違う。
音が前に出ない。
先生は、自分の手元をゆっくり見せた。
木戸羽はそれをじっくり見ていた。
木戸羽の顔には、焦りも、落ち込みの色もない。ただ、その時が過ぎるのを待っているようだった
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合奏の時間になると、管楽器が音楽室に戻ってきて、
いつもの配置に全員が座っていく。
金属音と木の擦れる音が重なって、音楽室が一気に「合奏前の空気」になった
楽器の前に立ちながら、私は一度、深く息を吸った。
今田先生が指揮棒を振る。
川上先生は後ろの方の椅子に座って、静かに観察している。
カウントで、曲が始まる。
最初の数小節、音楽室の天井に音がぶつかって、すぐに返ってくる。
ホールほど伸びない。でも、その分、全部がはっきり聴こえる。
スネアの刻みが土台をつくり、
ティンパニが低音を支え、
グロッケンの音がその上に光る。
そこに、バスドラが入る。
一打目で、空気がきゅっと締まったのがわかった。
続くクラッシュシンバルは、派手じゃないけど、ちゃんと音楽の中に収まっている。
あおいは前だけを見て鍵盤を叩きながら、
後ろで鳴っている音全部を、背中で感じていた。
曲が一区切りついたところで、今田先生が指揮を下ろす。
川上先生も小さくうなずきながら、静かに言った。
今田先生は打楽器の方を向き、明るい声色で言った。
部員の笑い声がこぼれ、音楽室の空気が柔らかくなった。
後ろの方で、凪斗先輩が小さく息を吐く気配がした。
美佑ちゃんもマレットを握り直し、口元をほんの少し緩める。
私は、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。
完璧じゃない。
まだ改善すべきところはある。
それでも、
——ちゃんと、音楽になってる。
久しぶりに、そう思えた瞬間だった。
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そこから2時間ほどして合奏が終わって、今田先生が指揮棒を置くと、部室の空気がふっと緩み、音楽室に片づけの音、笑い声が広がった。
後ろで川上先生もにっこり笑って、椅子に座ったままスコアを見ている。
合奏の余韻がまだ残る中、川上先生がゆっくり立ち上がり、打楽器の方へ向かってきた
後方にいる打楽器の一年生たちが、少し緊張しながら楽器の前に立つ。
雄也くんはバスドラのマレットを握り直し、菜々瀬ちゃんはトライアングルを抱えながら小さく息を吸った。
川上先生はまず雄也くんの方へ近づき、静かに言った。
雄也はうなずき、再びマレットを構える。
次に菜々瀬ちゃんのところへ。
川上先生が思い出したように、木戸羽の方を向いた
木戸羽は小さくうなずいた
上級生の凪斗先輩、みーちゃん先輩や美佑ちゃんと私は後ろからその様子を見守る。
指摘は短く、優しく、でも的確で、誰も責められている感じはない。
川上先生が最後にそう言うと、下級生たちの顔に少し自信が戻る気配があった。











編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。