第15話

15. クレッシェンドの先に
15
2025/12/27 16:29 更新
ホール練習の次の日、音楽室に入ると、まだ椅子は並んでいなかった。
 各パートの楽器ケースが壁際に寄せられていて、床が広く見える。
—————
芹沢 実里
おはようございます。今日は、ブレトレをした後、各パートに分かれて…
—————
いつも通りのミーティングが終わると、管楽器の人たちは楽器と譜面台を持って音楽室を出ていった。
 廊下に足音が重なって、ドアが閉まる。

 音楽室に残ったのは、打楽器だけだった。

 急に、空間が広くなる。
 いつも通りのことなのに、その感じが少しだけ新しかった。
今田 卓也
じゃあ、凪斗、先生迎えに行ってきて。下の職員玄関にいると思うから。


凪斗先輩はそう言われてスティックを置いた。
石橋 凪斗
了解です
短く返して、早歩きで音楽室を出ていく。

今田先生も音楽室をあとにした。

今日は、打楽器の講師の先生が来る日だ。昨日の練習の帰りに言われたから。今日、部活に来ている木戸羽はこのことを知らない。
講師の先生を待っている間、私たちはそれぞれ準備に入った。

譜面台を動かす音。
マレットを選ぶ音。
チューニングのために軽く叩く音。

 いつもより、少しだけ静かだ。
 私はヴィブラフォンの鍵盤を拭いてから、顔を上げた。
そのさらに向こうで、木戸羽がシンバルを並べていた。
星川 木戸羽
ねえ、きたーみ。
久しぶりに部活に来た木戸羽が、いつも通りのテンションで、美佑ちゃんのことをいつも使っているあだ名で呼んだ。
北川 美佑
んー?
美佑ちゃんがチューニングキーを回しながら返事をした
星川 木戸羽
ここさ、サシン入るとこ、ちょっと多くない?
北川 美佑
多いよね。しかも地味に拍ずれるし
木戸羽は笑って、楽譜を軽く振った。
星川 木戸羽
ここ、頭で数えてると絶対迷子になる
北川 美佑
わかる。だから私、足で拍とってる
星川 木戸羽
え、天才じゃん
北川 美佑
でしょ。
美佑ちゃんが自慢げに笑った
その会話は、ほんの数秒。
でも、空気が少し軽くなる。

来てなかったとか、気まずさとか、そういうものが入り込む余地はなかった。
美佑ちゃんはティンパニのヘッドを軽く叩いて言った
北川 美佑
今日、講師の先生来るらしいよ
星川 木戸羽
え、まじ?
木戸羽の目が、少しだけ光った。
星川 木戸羽
じゃ、ちゃんとやろ
冗談みたいな言い方だったけど、
それが木戸羽の本音みたいだった。


少しして凪斗先輩が戻ってきて、講師の先生の姿が凪斗先輩の後ろに見える。
その後ろから入ってきたのは、黒いリュックを肩にかけた、肩ぐらいまでの髪を後ろで括ってる見覚えのない女の人だった。
年齢はよく分からない。若くも見えるし、落ち着いても見える。
川上 鈴依奈
こんにちは
ニコッと笑いながら挨拶をして、
川上 鈴依奈
今日、打楽器を見させてもらいます。川上 鈴衣奈かわかみれいなといいます。よろしくお願いします
軽く頭を下げると、先生は前に出た。
川上 鈴依奈
じゃあ、簡単にみんな自己紹介してもらおうかな
その一言で、空気が少し和らぐ。

凪斗先輩の合図で、学年順に名乗っていく。
石橋 凪斗
じゃあ、俺から…。
三年の石橋 凪斗です。自由曲と課題曲でスネアやってます。
佐藤 美玲
三年の佐藤 美玲です。グロッケンを担当してます。課題曲はシロフォンとグロッケンと小物を担当します。
佐藤 あおい
二年の、佐藤あおいです。ヴィブラフォンを担当してます。課題曲は、バスドラとタンバリンです。
北川 美佑
二年北川 美佑です。どっちもティンパニやってますお願いします
いつもより声が落ち着いて聞こえた
星川 木戸羽
二年の星川 木戸羽です。課題曲と自由曲サシンとクラッシュ担当です。
木戸羽は少し俯きながらしゃべった
前田 雄也
一年の、前田 雄也です!自由曲はバスドラです!課題曲はなしです!
市花 菜々瀬
同じく一年、市花 菜々瀬です!トライアングルやってます!課題曲はなしです!
全員が言い終わると、川上先生が優しい声で言った。
川上 鈴依奈
ありがとう。じゃあまず、一回、全部聞かせてもらおうかな
川上 鈴依奈
課題曲から、お願いします
私たちは課題曲の楽器配置につく。一年生二人はパートがないので、課題曲を演奏する間は待機する。

先生が椅子に座って、スコアを開く。

【2024年度全日本吹奏楽コンクール課題曲Ⅲメルヘン】


メトロノームのカウント。

バスドラとクラッシュシンバルが重なり、ティンパニがソロを演奏する。
————曲が終わると、しばらく誰も音を出さなかった。
 最後の余韻が、音楽室の天井に薄く残っている気がした。
川上 鈴依奈
ありがとうございます。うん、全体の流れはすごくいいですね
その一言で空気が少し緩む
川上 鈴依奈
まず、グロッケン
先生が席を立って、みーちゃん先輩の方へ歩く。
川上 鈴依奈
音の粒がきれいで、フレーズがちゃんと聞こえてて、いい感じ。
みーちゃん先輩が、ほんの少しだけ肩の力を抜いたのがわかった。
川上 鈴依奈
あとは、足をもう少し開くと、カッコよく見えます
佐藤 美玲
はい
続けてスネアの方に向かう
川上 鈴依奈
スネアもリズムが安定しててすごくいい感じ。
凪斗先輩は軽く頷いた
川上 鈴依奈
ティンパニは、音が力強くていいと思います
美佑ちゃんは得意げな顔をした後軽くお辞儀した
先生が私の方を向いた
川上 鈴依奈
バスドラは、ロールがとっても上手で、ちゃんとベースになってていいですね
佐藤 あおい
ありがとうございます…。
私は、内心嬉しかった。
川上 鈴依奈
シンバルは……
川上先生は静かに木戸羽の方へ歩いて行った
川上 鈴依奈
シンバル系は、入る位置は合ってるけど、ただ、音の大きさが毎回少しずつ違うかな。それ、今結構目立っちゃってるから
木戸羽は静かに頷いた
川上 鈴依奈
あと、叩くときにもう少し音を広げて欲しいな
川上先生がクラッシュシンバルを持って一度叩く。
その音はいつもと全然違くて、音楽室中に煌びやかな音が響いた
川上 鈴依奈
今の、余計な力は入れてなくて。叩く、というより、当てて、離す感じ
星川 木戸羽
はい
木戸羽はうなずいて、同じように腕を上げた。
シャアン
音は出た。
でも、広がらない。
響く前に、どこかで詰まって、重たい音になった。
川上 鈴依奈
あ、ちょっと音が籠もったね
先生の声は相変わらず柔らかい。
木戸羽は「あれ?」と首をかしげて、もう一度叩く。
さっきよりはましだけど、先生の音とは違う。
音が前に出ない。
川上 鈴依奈
叩いたあと、ほんの一瞬だけ、力が残っちゃってるかな。それで、もう少し腕を伸ばして、面の部分を外側に広げてください。
先生は、自分の手元をゆっくり見せた。
木戸羽はそれをじっくり見ていた。
木戸羽の顔には、焦りも、落ち込みの色もない。ただ、その時が過ぎるのを待っているようだった
—————

合奏の時間になると、管楽器が音楽室に戻ってきて、
いつもの配置に全員が座っていく。
金属音と木の擦れる音が重なって、音楽室が一気に「合奏前の空気」になった
楽器の前に立ちながら、私は一度、深く息を吸った。
今田 卓也
課題曲、おねがいします
今田先生が指揮棒を振る。
川上先生は後ろの方の椅子に座って、静かに観察している。
カウントで、曲が始まる。

最初の数小節、音楽室の天井に音がぶつかって、すぐに返ってくる。
ホールほど伸びない。でも、その分、全部がはっきり聴こえる。
 スネアの刻みが土台をつくり、
ティンパニが低音を支え、
グロッケンの音がその上に光る。

そこに、バスドラが入る。

一打目で、空気がきゅっと締まったのがわかった。
続くクラッシュシンバルは、派手じゃないけど、ちゃんと音楽の中に収まっている。

あおいは前だけを見て鍵盤を叩きながら、
後ろで鳴っている音全部を、背中で感じていた。

曲が一区切りついたところで、今田先生が指揮を下ろす。
今田 卓也
はい、ありがとうございまーす。
川上先生も小さくうなずきながら、静かに言った。
川上 鈴依奈
今の打楽器、全体のまとまりがよく出てました
今田先生は打楽器の方を向き、明るい声色で言った。
今田 卓也
本当だね。打楽器、味出てきたねー。先生、ありがとうございます!
部員の笑い声がこぼれ、音楽室の空気が柔らかくなった。
後ろの方で、凪斗先輩が小さく息を吐く気配がした。
美佑ちゃんもマレットを握り直し、口元をほんの少し緩める。

私は、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。

完璧じゃない。
まだ改善すべきところはある。

それでも、

——ちゃんと、音楽になってる。

久しぶりに、そう思えた瞬間だった。
—————
そこから2時間ほどして合奏が終わって、今田先生が指揮棒を置くと、部室の空気がふっと緩み、音楽室に片づけの音、笑い声が広がった。
後ろで川上先生もにっこり笑って、椅子に座ったままスコアを見ている。
合奏の余韻がまだ残る中、川上先生がゆっくり立ち上がり、打楽器の方へ向かってきた
川上 鈴依奈
自由曲の、バスドラとトライアングル、少し気になるところがあるから
後方にいる打楽器の一年生たちが、少し緊張しながら楽器の前に立つ。
雄也くんはバスドラのマレットを握り直し、菜々瀬ちゃんはトライアングルを抱えながら小さく息を吸った。
川上先生はまず雄也くんの方へ近づき、静かに言った。
川上 鈴依奈
バスドラの入りのタイミング、ちょっと遅れ気味ね。もう少し拍に意識してみて
前田 雄也
はい!ありがとうございます!
雄也はうなずき、再びマレットを構える。
次に菜々瀬ちゃんのところへ。
川上 鈴依奈
トライアングルは音が少し小さいかも。強めに、でも軽やかに響かせてね。トライアングルは、叩き方でいろんな音が出る楽器だから、そこら辺は、色々練習の中で、見つけてみてね
市花 菜々瀬
はい!
川上 鈴依奈
あ、あと
川上先生が思い出したように、木戸羽の方を向いた
川上 鈴依奈
サスペンドシンバルのロールの仕方、少し粗々しかなっちゃってるから、もう少し細かくできるといいかな。
木戸羽は小さくうなずいた
上級生の凪斗先輩、みーちゃん先輩や美佑ちゃんと私は後ろからその様子を見守る。
指摘は短く、優しく、でも的確で、誰も責められている感じはない。
川上 鈴依奈
打楽器のみんな、少しずつもっと輝かせていけるね
川上先生が最後にそう言うと、下級生たちの顔に少し自信が戻る気配があった。

プリ小説オーディオドラマ