その夜。
有栖はなかなか眠れなかった。
チェシャ猫の言葉が頭から離れない。
『女王は嘘をついている』
『でも全部じゃない』
『選ぶ時は間違えないでね』
意味が分からない。
それなのに妙に引っかかる。
有栖はベッドの上で寝返りを打った。
その時だった。
__コン。
窓を叩く音が聞こえた。
有栖は体を起こす。
気のせいかと思った。
だが。
__コン、コン。
今度ははっきり聞こえた。
誰かが窓を叩いている。
有栖は警戒しながら窓へ近づく。
カーテンを開いた瞬間。
思わず声が漏れた。
窓の外に人影が張り付いていた。
しかも逆さまに。
「静かに!」
聞き覚えのある声だった。
ボウシ屋だ。
有栖は慌てて窓を開ける。
ボウシ屋は器用に部屋の中へ転がり込んだ。
服は泥だらけ。
帽子も潰れている。
どうやって抜け出してきたのか分からない。
ボウシ屋は疲れたように壁へ寄りかかった。
ボウシ屋は肩をすくめた。
こんな状況なのに妙にいつも通りだった。
だが目だけは笑っていない。
その一言で空気が変わった。
有栖も真顔になる。
ボウシ屋はしばらく黙っていた。
まるで言うべきか迷っているようだった。
そして小さく息を吐く。
有栖の表情が固まる。
女王もチェシャ猫も同じことを言っていた。
だが有栖には信じられない。
ボウシ屋が問い返す。
有栖は言葉を失った。
確かにおかしい。
女王は逆らった住人を容赦なく罰する。
なのに自分だけは特別扱いされている。
ボウシ屋は続ける。
何も答えられない。
沈黙。
有栖は拳を握る。
ボウシ屋は苦しそうな顔をした。
その瞬間。
有栖の背筋が冷えた。
ボウシ屋は窓の外を見ている。
まるで誰かを警戒するように。
声が小さくなる。
有栖は苛立った。
何もかも中途半端だ。
だがボウシ屋も必死なのは伝わってくる。
するとボウシ屋は懐から何かを取り出した。
小さな銀色の鍵だった。
有栖が受け取る。
ひんやりと冷たい。
不思議な模様が刻まれていた。
見たことのないはずなのに。
なぜか懐かしい。
有栖が鍵を見つめた瞬間。
また記憶が揺れた。
幼い自分。
笑っている誰か。
そして。
『いつか必ず返すからね、王子様』
知らない声。
なのに胸が締め付けられる。
有栖は思わず頭を押さえた。
ボウシ屋が尋ねる。
頭痛はすぐに消えた。
だが動揺だけが残る。
ボウシ屋はどこか寂しそうに笑った。
そして真剣な顔になる。
またその言葉だった。
選ぶ。
チェシャ猫も女王も言っていた。
有栖が叫ぶ。
だがその瞬間だった。
遠くで鐘が鳴った。
ゴォォォン__。
ボウシ屋の顔色が変わる。
ボウシ屋が窓へ駆け寄る。
廊下の向こうから足音が聞こえてきた。
トランプ兵たちだ。
しかも大勢いる。
ボウシ屋は窓枠に足をかける。
そして最後に振り返った。
いつものふざけた顔ではなかった。
真剣そのものだった。
ボウシ屋はそう言った。
そして少しだけ迷うような表情を浮かべる。
言葉を切る。
次の瞬間。
ボウシ屋は夜の闇へ飛び降りた。
同時に部屋の扉が勢いよく開く。
トランプ兵たちがなだれ込んでくる。
有栖はとっさに銀の鍵を握り締めた。
兵士たちの視線は窓の外へ向いている。
どうやら鍵には気付いていない。
だが有栖の胸の鼓動は激しく鳴っていた。
女王。
ボウシ屋。
チェシャ猫。
そして「王子様」という言葉。
点だったものが少しずつ繋がり始めている。
しかしその真実に辿り着くには、まだ足りなかった。














編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。