第9話

第玖話
8
2026/07/12 15:00 更新
その夜。
有栖はなかなか眠れなかった。
チェシャ猫の言葉が頭から離れない。
『女王は嘘をついている』
『でも全部じゃない』
『選ぶ時は間違えないでね』
意味が分からない。
それなのに妙に引っかかる。
有栖はベッドの上で寝返りを打った。
その時だった。
__コン。
窓を叩く音が聞こえた。
有栖は体を起こす。
気のせいかと思った。
だが。
__コン、コン。
今度ははっきり聞こえた。
誰かが窓を叩いている。
有栖は警戒しながら窓へ近づく。
カーテンを開いた瞬間。
有栖
有栖
うわっ!?
思わず声が漏れた。
窓の外に人影が張り付いていた。
しかも逆さまに。
「静かに!」
聞き覚えのある声だった。
ボウシ屋だ。
有栖
有栖
ボウシ屋!?
有栖は慌てて窓を開ける。
ボウシ屋は器用に部屋の中へ転がり込んだ。
服は泥だらけ。
帽子も潰れている。
どうやって抜け出してきたのか分からない。
有栖
有栖
お前、捕まってたんじゃ__
ボウシ屋
ボウシ屋
捕まってるよ。
有栖
有栖
は?
ボウシ屋
ボウシ屋
今も捕まってる。
有栖
有栖
どういう意味だよ。
ボウシ屋は疲れたように壁へ寄りかかった。
ボウシ屋
ボウシ屋
逃げてきたんだ。一時間くらいだけ。
有栖
有栖
一時間?
ボウシ屋
ボウシ屋
その後また捕まる。
有栖
有栖
嫌すぎるだろ。
ボウシ屋は肩をすくめた。
こんな状況なのに妙にいつも通りだった。
だが目だけは笑っていない。
ボウシ屋
ボウシ屋
時間がないんだ。
その一言で空気が変わった。
有栖も真顔になる。
有栖
有栖
何を知ってる。
ボウシ屋はしばらく黙っていた。
まるで言うべきか迷っているようだった。
そして小さく息を吐く。
ボウシ屋
ボウシ屋
有栖。
有栖
有栖
何。
ボウシ屋
ボウシ屋
君は迷い人じゃない。
有栖の表情が固まる。
有栖
有栖
……は?
ボウシ屋
ボウシ屋
少なくとも普通の迷い人じゃない。
有栖
有栖
またそれか。
女王もチェシャ猫も同じことを言っていた。
だが有栖には信じられない。
有栖
有栖
僕は普通の人間だ。
ボウシ屋
ボウシ屋
だったら説明できる?
ボウシ屋が問い返す。
ボウシ屋
ボウシ屋
どうして女王が君を殺さないのか。
有栖は言葉を失った。
確かにおかしい。
女王は逆らった住人を容赦なく罰する。
なのに自分だけは特別扱いされている。
ボウシ屋
ボウシ屋
どうしてチェシャ猫が君を気にかけるのか。
ボウシ屋は続ける。
ボウシ屋
ボウシ屋
どうして白い通行証が渡されたのか。
何も答えられない。
ボウシ屋
ボウシ屋
そしてどうして君だけが城へ入れたのか。
沈黙。
有栖は拳を握る。
有栖
有栖
だったら教えろよ。
ボウシ屋
ボウシ屋
できない。
有栖
有栖
何でだ!
ボウシ屋は苦しそうな顔をした。
ボウシ屋
ボウシ屋
女王が見てる。
その瞬間。
有栖の背筋が冷えた。
ボウシ屋は窓の外を見ている。
まるで誰かを警戒するように。
ボウシ屋
ボウシ屋
この城には目がある。
有栖
有栖
目?
ボウシ屋
ボウシ屋
耳もある。
声が小さくなる。
ボウシ屋
ボウシ屋
だから全部は話せない。
有栖は苛立った。
何もかも中途半端だ。
だがボウシ屋も必死なのは伝わってくる。
するとボウシ屋はふところから何かを取り出した。
小さな銀色の鍵だった。
ボウシ屋
ボウシ屋
これを持ってて。
有栖
有栖
鍵?
ボウシ屋
ボウシ屋
なくすなよ。
有栖が受け取る。
ひんやりと冷たい。
不思議な模様が刻まれていた。
見たことのないはずなのに。
なぜか懐かしい。
有栖
有栖
……これ。
有栖が鍵を見つめた瞬間。
また記憶が揺れた。
幼い自分。
笑っている誰か。
そして。
『いつか必ず返すからね、王子様』
知らない声。
なのに胸が締め付けられる。
有栖は思わず頭を押さえた。
有栖
有栖
っ……!
ボウシ屋
ボウシ屋
思い出した?
ボウシ屋が尋ねる。
有栖
有栖
いや……分からない……。
頭痛はすぐに消えた。
だが動揺だけが残る。
ボウシ屋はどこか寂しそうに笑った。
ボウシ屋
ボウシ屋
そっか。
そして真剣な顔になる。
ボウシ屋
ボウシ屋
有栖。
有栖
有栖
何。
ボウシ屋
ボウシ屋
その鍵は最後まで持ってろ。
有栖
有栖
最後?
ボウシ屋
ボウシ屋
君が選ぶ時に必要になる。
またその言葉だった。
選ぶ。
チェシャ猫も女王も言っていた。
有栖
有栖
だから何を選ぶんだよ。
有栖が叫ぶ。
だがその瞬間だった。
遠くで鐘が鳴った。
ゴォォォン__。
ボウシ屋の顔色が変わる。
ボウシ屋
ボウシ屋
まずい。
有栖
有栖
どうした?
ボウシ屋
ボウシ屋
見つかった。
ボウシ屋が窓へ駆け寄る。
廊下の向こうから足音が聞こえてきた。
トランプ兵たちだ。
しかも大勢いる。
有栖
有栖
待て!まだ話は__
ボウシ屋
ボウシ屋
今は無理だ!
ボウシ屋は窓枠に足をかける。
そして最後に振り返った。
いつものふざけた顔ではなかった。
真剣そのものだった。
ボウシ屋
ボウシ屋
有栖。
有栖
有栖
……何。
ボウシ屋
ボウシ屋
女王を信じるな。
ボウシ屋はそう言った。
そして少しだけ迷うような表情を浮かべる。
ボウシ屋
ボウシ屋
でも__
言葉を切る。
ボウシ屋
ボウシ屋
この国は嫌いになるな。
次の瞬間。
ボウシ屋は夜の闇へ飛び降りた。
同時に部屋の扉が勢いよく開く。
トランプ兵たちがなだれ込んでくる。
有栖はとっさに銀の鍵を握り締めた。
兵士たちの視線は窓の外へ向いている。
どうやら鍵には気付いていない。
だが有栖の胸の鼓動は激しく鳴っていた。
女王。
ボウシ屋。
チェシャ猫。
そして「王子様」という言葉。
点だったものが少しずつ繋がり始めている。
しかしその真実に辿り着くには、まだ足りなかった。

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