前の話
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あ、雨の匂い。
鼻腔をくすぐる特有の匂いに空を見上げれば、どんよりと重たい雲が広がっていて。
家に帰り着く前に、雨はぽつぽつと私の鞄に水玉をつくりあげた。雨の匂いは嫌いじゃないなと急ぎ足で歩みながら思う。
いつも雨のときには、唯月のことを思い出す。あの子は雨が嫌い、というよりも低気圧が嫌いだった。偏頭痛持ちで、低気圧の日には欠かさず頭痛発作に襲われていた。
明るくて一生懸命な子で、体調が悪いのにきちんと休もうともしない唯月を私が連れて帰って寝かせるのがいつもの流れだった。唯月の頭痛はぎりぎり隠して動けてしまう位のもので、動いているうちに悪化するのだ。そうなると私の肩に顔を埋めて、ときにはそこで眠ってしまう。私の方も慣れたもので、頭を優しく優しく撫でてやりながら黙って肩を貸していた。
中学も、高校も一緒に生徒会の仕事をして、友達として過ごして、密やかに恋人としても過ごした。大事な大事な、私の唯月。
4年前の秋、彼女は社会人として初めての転勤先で津波にのまれた。付き合って12年目だった。雨がしとしとと降る夕方。大きな地震があって、彼女がいた沿岸の営業所は呆気なく濁流に押し流された。
あのとき鳴り響いた地震アラートも、被害地域の中継も、避難を呼び掛け叫ぶアナウンサーの声も、きっと生涯忘れられない。
その後のことは、あまり憶えていない。酷く苦くて、こんな夢はやく醒めてしまえと願い続けていたことだけが鮮烈に記憶に焼き付いている。
唯月のいない世界でも、私はなんだかんだ生きていて。周りの人には「お前らどっちかいなくなったら生きていけないんじゃないの」なんていわれていたけど、私は生きている。
死んでしまえれば良かったのに。
雨の日になると、私の肩で眠る唯月の匂いを思い出す。あたまいたい、と小さく零す唯月の声を思い出す。真っ直ぐで艶やかな、唯月の髪の感触を思い出す。
……あ。
私は独り苦笑いを浮かべた。雨のときだけじゃない。どうせ晴れてたって曇ってたって、私の頭の中には彼女しかいなかった。
綺麗なものを見れば、唯月が好きそうだなと思うし、何もなくても彼女のことだけを考えている。ならば、もう。
今から追いかけたら、彼女と一緒に来世を生きることができるだろうか。向こうで会ったら、怒られるだろうか。眠るならば、彼女を飲み込んだあの海がいい。明日、あの海岸へ行こう。転勤先に私が遊びに行った時、一緒に散歩したあの海岸へ。
唯月と、また逢えるのならば。また、雨が降るのならば。
私は初夏のまだ冷たい海の中へ、飛び込んだ。












編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!