※小雪と真田先輩は恋人
ある夜。
湯気の残る脱衣所で、
小雪はタオルで髪を拭きながら、
ぼんやりと今日のことを思い返していた。
お風呂上がり特有のぽかぽかした体温と、
ほんのり甘いボディソープの匂い。
下着を、
とブラジャーを持つ。
ぱちん、
といつものように留めようとして――
指先が止まった。
もう1度。
……届かない。
小雪は鏡を見た。
特に変わったようには見えない。
けれど、
もう1度試してみても、
やっぱりホックがきちんと締まらない。
自分でショックを受ける。
最近、
明彦と一緒に甘いものを食べた。
影時間とはいえ、夜更かしもした。
――全部、
思い当たる。
無理やりホックを留める。
きゅ、
と胸が締めつけられて少し苦しい。
鏡の中の自分を見て、
唇をきゅっと結ぶ。
もし、
明彦に“丸くなったな”
なんて言われたらどうしよう。
もし、
前のほうが良かったと思われたら――。
そんな不安が、
湯上がりの体温を少しだけ冷ましていく。
小雪はタオルをぎゅっと握った。
誰のためか、
と聞かれたら。
きっと、
半分は自分のため。
そして、
半分は――。
パジャマを着て深呼吸。
明日から、
ちょっとだけ気をつけよう。
無理はしない。
少しだけ頑張る。
そう心に誓って、
部屋の明かりを消した。
夜は静かに、
小雪の小さな決意を包み込んでいた。
翌朝。
まだ少し冷たい空気の中、
キッチンには湯気と味噌の香りが広がっていた。
小雪はエプロン姿でフライパンを握り、
隣では真次郎が無言で味噌汁の味を見ている。
慌てて弱める小雪。
けれどその表情はどこか上の空だった。
――ダイエットしないと。
昨夜の決意が頭の隅に残っている。
こっそりと自分の茶碗によそうご飯を、
いつもより少なめにした。
それを、
真次郎は見逃さなかった。
ぽつりと漏らすと、
真次郎は一瞬だけ手を止めた。
湯気の向こうで鋭い目が細められる。
ぶっきらぼうな言い方。
けれどその声色は、
ほんの少しだけ柔らかかった。
小雪は小さく頷きながら、
焼き上がった卵を皿に移した。
朝食が並び、
結局――
小雪はいつも通りの量を食べていた。
味噌汁も、
焼き魚も、
ふわふわの卵焼きも。
真次郎に“ちゃんと食え”と言われ、
なんとなく流れで箸を進めてしまったのだ。
気づけば茶碗は空。
自分でよそった“控えめ”のはずのご飯も、
結局おかわりしていた。
――ダイエットするんじゃなかったの?
胸の奥がきゅっと縮む。
美味しかった。
ちゃんとお腹も満たされた。
それなのに、
満足より先に後悔が押し寄せる。
小さく呟く小雪。
向かいで茶をすする真次郎がちらりと見る。
慌てて立ち上がり、
食器を重ねる。
けれど心の中では、
ぐるぐると反省会が続いていた。
――今日から、
もっとちゃんとしないと‼︎
そう思いながらも、
どこかで朝ごはんの温かさを
思い出してしまう自分がいて、
余計に複雑な気持ちになるのだった。
学校の昼休み。
屋上のベンチで、
小雪は明彦と向かい合って弁当を広げていた。
けれどその中身は、
いつもより明らかに少ない。
ご飯は半分ほど。
おかずも隙間が目立つ。
小雪は笑ってみせるが、
どこかぎこちない。
箸の動きもどこか遠慮がちだ。
次の瞬間、
ぽん、と軽い音。
明彦は何も言わず、
自分の弁当から唐揚げをひとつ摘み、
小雪の弁当へ移した。
続けて卵焼きも。
慌てて否定する小雪。
けれど視線は泳ぐ。
明彦はじっと小雪を見つめたあと、
少しだけ目を細めた。
その声は強いけれど優しい。
小雪はしばらく黙り込んでから、
小さく答えた。
弁当の上に増えたおかずが、
やけに温かく見えた。
下校途中。
夕暮れの道を並んで歩いていると、
明彦がふと思い出したように言った。
小雪は一瞬だけ考える。
――ダイエット。
頭の中でその単語がよぎる。
豆腐ならカロリーを抑えられる。
二人は駅前のスーパーへ方向を変えた。
豆腐、
卵、
牛乳、
少しのはちみつ。
カゴに材料を入れながら、
小雪は胸の奥が少しワクワクした。
買い物を終えて寮へ戻ると、
2人はそのままキッチンへ向かった。
エプロンをつけ、
小雪はボウルを用意し、
明彦は袖をまくる。
明彦は素直にフォークで豆腐を崩していく。
ぎこちないが真剣だ。
豆腐を使えば、
いつものホットケーキより軽い仕上がりになる。
カロリーも控えめ。
ダイエット中でも罪悪感は少ない。
――これなら大丈夫。
小雪は少しだけ肩の力を抜いた。
大きな手でボウルを押さえ、
こぼさないよう慎重に混ぜる明彦。
その様子がどこか不器用で、
小雪は思わず笑ってしまう。
フライパンに生地を流すと、
じゅわっと優しい音が広がった。
甘い匂いがキッチンを満たしていく。
小さく笑い合いながら、
ふんわりと膨らんでいく
豆腐のホットケーキを見つめた。
ふんわり焼き上がった
豆腐のホットケーキを皿に乗せ、
2人で向かい合う。
ひと口食べて、
小雪はぱっと顔をほころばせた。
その笑顔を見つめていた明彦が、
ふと真面目な声になる。
まっすぐな視線に、
小雪は観念したように目を伏せる。
ぽつりと打ち明ける。
明彦は1度息を吐き、
それから椅子を引いた。
立ち上がり、回り込む。
小雪が見上げた瞬間、
明彦はそっと隣に腰を下ろした。
そして、
そのまま肩を引き寄せる。
ぎゅっと、強く。
続けようとして、
言葉が詰まる。
さすがに“ブラジャーがきつくなった”
なんて言えない。
視線を逸らす小雪に、
明彦は迷いなく告げた。
明彦はそのまま腕の力を少し強めた。
ぎゅ、ともう1度。
小雪の体がぴくりと揺れる。
顔が一気に熱くなる。
けれど離れようとしても、
明彦の腕はびくともしない。
明彦は真剣な顔のまま、
抱きしめたまま微妙に位置を直す。
まるで本当に“確認”しているみたいに。
小雪の頭の中は真っ白だ。
でも、
抱きしめられていて思う。
――確かに、
ブラジャー以外はキツくない。
スカートも、
制服も、
特に変わった感じはなかった。
朝だって普通に着られた。
再度、断言。
小雪の顔はさらに赤くなる。
腕はまだ離れない。
むしろ当然のようにそのままだ。
小雪は恥ずかしさでいっぱいになりながらも、
胸の奥にあった不安が、
少しずつ溶けていくのを感じていた。
不安が薄れていくのとは裏腹に、
明彦の腕はまだ離れない。
むしろ少しだけ距離が縮まる。
顔を真っ赤にした小雪の様子など気にせず、
明彦は真顔のまま視線を落とす。
そして――
手がすっと動きかけた。
その瞬間。
ガチャ、と玄関の音。
振り向けば、
買い物袋を提げた真次郎が立っていた。
状況を一瞬で把握したらしい目。
数秒の沈黙。
反論できない。
さっきまで抵抗しきれていなかった自覚はある。
明彦は腕を離さないまま、
不満げに舌打ちする。
小雪は恥ずかしさと気まずさで顔を覆った。
甘い空気は一瞬で吹き飛び、
キッチンには妙に現実的な空気が戻っていた。
晩ご飯を終えた後。
罰として、
明彦は真次郎と並んで食器を洗っていた。
水の音だけがキッチンに響く。
しばらく無言だったが、
ぽつりと明彦が口を開く。
やけに爽やかな顔。
次の瞬間――
ばしゃっ。
真次郎が蛇口をひねり、
水をそのまま明彦の顔にかけた。
キッチンには、
呆れたため息と水音が混ざっていた。
真次郎に冷やかな目で見られようが、
呆れられようが。
明彦はやめなかった。
”継続は大事“と真顔で言い、
隙あらば距離を縮め、
時間があれば抱き寄せる。
そのたびに“ほどほどにしろ”と
真次郎の雷は落ちたが――
本人はどこ吹く風だった。
ーー数年後。
小雪は心身ともに、
すくすくと成長した。
それが明彦の“研究成果”かどうかはさておき。
当の本人だけは、
胸を張ってこう言うのだ。
隣で真次郎が、
盛大にため息をつくのも――
もはやお決まりの光景だった。















編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。