「あなた、教師になる気ない?」
高専の卒業から三年、冬から春へ移ろう山々に囲まれた、この学び舎の休憩スペース。
任務を終えてひと休みしていた後輩に向かって、五条は声を掛けた。───我ながら呆れる。この期に及んで、あの情けない恋敵に塩を送ろうなんて。
「……教師、ですか」
「そ!あなたは賢いし、勿論呪術師としての腕も立つ!それに子ども好きでしょ?向いてると思うんだけどなぁ」
「でも、私人に教えられるようなことは、何も」
あなたの呪術は、まあ人に教えてどうこうなるようなものじゃない。そもそもその術式で一級までのし上がった彼女の力こそ異例だし、彼女の家に由来する相伝のそれは、勿論血筋によるところが大きい。
しかし、ここで退く訳にはいかない。
「何言ってんの!体術はあなたの十八番でしょ、君くらいの使い手になれれば、術式でアドバンテージが作れない術師だってきちんと戦える。適任じゃないの!」
「……そうでしょうか」
「そうだよ、現場で後輩術師の育成もいいけど、そのもっともっと基礎の部分をしっかり鍛えられる人材を探してんの」
あなたが躊躇う理由はわかっている。
辛いのだろう。この校舎には彼女の大切な思い出が詰まっていすぎるから。教室には学友との日々が、校庭には在りし日の喧騒が、廊下にも職員室にも階段にも書庫にも、懐かしい顔や声が張り付いていて、それを振り払うことができないから。
「…………」
少し俯いて思案するあなたに、五条は言葉を掛けなかった。黙って考えさせてやりたい。あなたが見つける答えを。それで駄目なら次を考えよう。
五条があなたを教職に誘おうと思ったのは、ここ最近任務の難易度も件数もぐっと上がった彼女を、自分の目が届く場所に置いておきたかったからだ。
あなたは入った任務になんの文句も言わず、むしろほっとしたように奔走していた。そろそろ耐えかねている。空虚になった傍らに。
同期三人で歩く時、あなたは常に真ん中に挟まれていた。その片方の体温は、僅か一年で永遠の闇に消えてしまった。そして、ずっとそばにあって欲しいと願ったもう片方の体温も、自分の意志で離れていった。冷たい両脇を意識しないように、彼女は常に走り回っている。
”硝子ー、あなたを高専に誘おうと思うんだけど”
なんの気無しに言ってみたら、硝子は”それがいい”と即座に肯定した。どうやら自分の意図は、言葉にせずとも伝わったらしい。
彼女も心配しているのだ、可愛い後輩の、その潰れそうな心を。
「五条先輩、あの」
物思いに耽っていたら、あなたがこちらを見ていた。
「ん、なあに?」
なるべく素っ気ない振りで、いつも通り喋る。
「教職のお話、前向きに考えたいと思います」
あなたの瞳は強く、固い決意が滲んでいた。
五条はその目になんとなく不安を感じて、しかし顔には出さないように、おどけた笑みを浮かべる。
「OK、OK!あなたならそう言ってくれると思ってたよーっ!教師って大変だけどやり甲斐ある仕事だよ?あなたもすぐその気になれる!」
「五条先輩からやり甲斐なんて言われると、急に胡散臭いんですけど」
「えーっ!?ひどいなぁ、僕はやり甲斐と使命感が服着て歩いてるみたいって評判なのに」
「その評判、すぐソース提示してくれます?」
最初から真面目な話は五条の流儀ではない。先を急げばあなたに裏を読まれてしまう危険がある。彼女は変なところで敏感だ。
「……で、どうして受けてくれる気になったの?」
これなら怪しまれまい。完璧な普段の五条スタイルである。
あなたは、五条の言葉にふっと物憂げな───遠いところを見るような目をして、窓の外に視線を飛ばした。
「子どもが、大人になる───そんな当たり前がこの世界にはないからです。教師という肩書きで、少しでも生徒のそばにいて、その子たちが大人になるまで守れたら……と、思いまして」
ああ、そういうことね。
強い瞳に感じた不安は当たっていた。彼女は、身を呈して生徒を───あの日守れなかった友人を、その後悔を分け合った恋人を、守る気なのだろう。たとえ、自分が死んでも。
余程大切だったに違いない、初めてできた友達。頼んでもないのにそばにいて、毎日顔を合わせて一緒に行動して。望まずとも与えられた鬱陶しさは、やがて当たり前の幸せになり、永遠という化けの皮を被った幻想になった。
いとも容易く叩き壊され、慰めにもならない”名誉”だの”武勲”だのといった死への賞賛に、その心がどれ程悲鳴を上げただろうか。
「生徒が自分の身を守るための強さ、そのひと欠片でも私が教えるに足るならば、そんなに嬉しいことはないです。誰も死なずに───なんて、夢物語ですけど……その夢が、私には必要なんです」
きっとどこまで行っても勝てっこない。
友情にも、恋にも。
自分が煮え湯を飲まされるなんて思ってもみなかった。しかし敗北はハナから決まっていたようにも思う。だって、彼女を作った───否、救ったのは、彼女の同期たちに他ならないのだから。
※
「五条先輩」
「ん?」
ぼんやりと教室の窓から外を眺めていたら、急にあなたの声がした。
ふと顔を上げると、眼前に何かが飛んでくるのが見える。咄嗟に受け止めたら、それは自販機で売っているミルクココアだった。
「ちょっとあなた、差し入れとか可愛くない?」
「え、そうですか?」
「とぼけちゃってぇー!さりげなーく僕に優しくして気を惹く作戦なんじゃないの?」
「よくそんな都合のいいクソ思考がぽんぽん出てきますね」
如実に口元をひん曲げたあなたは、身じろいで一歩退いてみせる。しかし五条は全くめげた様子もなく、後輩に向かってそっと手を差し伸べた。
「そんな回りくどいことしなくていいよ。……おいで、素直に甘えてご覧?今ならとびきり可愛がってあげる」
「すみませんが私、心に決めた伴侶がおりますので」
こんなやり取りも何万回目か。
幾度となく繰り返したきた冗談と悪態の応酬も、もはやギリギリだった。───もういいか。ここまで来たら隠さなくても。自分が何を言ったところで、もう二度とこの二人が揺らぐことはないだろう。
「あなたはさァ、僕が本気で言ってるって思ってないだろ」
「え?」
最近の五条は、あなたの前で目隠しを外さなくなった。サングラスに変えることすらせず、どんな時でもその目元を謎に包んだままだ。
婚約祝いとして集まった飲み会の席でもそうだった。大衆向けの居酒屋に珍しく目隠しで現れて、あなたはなんとなく違和感を感じたものである。
それが気まぐれなのか、それとも何か事情があったのか、結論を言えば後者だった。
「あなたのこと、好きなんだけど」
「………………はい?」
「あー、ほら予想もしてませんでしたって顔!傷付くわぁー」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ先輩。何か変なもの食べました?タチの悪い呪霊に何かされました?」
「ううん、全くの健康体さっ!今日も元気に朝勃ちしてたし!」
「朝事情は聞いてない!でも……、急に訳分からないこと言われて健康だなんて信憑性がないんですけど!?」
まあそうだろう。何せ今までずっと、想いを伝える度それを軽口に仕立てあげてきた。だって困る。最強の呪術師がそんなガチ恋キャラに転身する訳にはいかない。後輩を揶揄って楽しむ下衆なお調子者のほうが事が上手く回るのだ。
「僕の立ち回りが秀逸だったのか、あなたが鈍すぎたのか……どっちにしろ先輩は悲しいなぁ」
「あの、その、嘘ですよね、いつもの冗談ですよね?」
信じられないが八割、信じたくないが二割ってとこか。目の前の後輩はその大きな目をくるくると彷徨わせて、五条の冗談を見破る糸口を探しているようだ。
───ごめん、残念だったね。
「冗談?……馬鹿言うなよあなた。本気だっての」
「……な」
「出逢って最初はさァ、こんなつまんない奴が僕の嫁かよってうんざりしてた。巫山戯んなって思ったね。でも今は本気。……五条家頭首の僕が28歳にもなって独身の理由、ちったァ考えろ」
「なんでそんなに偉そうなんですか」
「偉そう……か。ま、そりゃ自分に対する憤りって奴じゃないかな」
そう。これは自分への八つ当たり。好きな人に好きと言うだけで敗北を噛み締めなければいけなくなった自分への、態度の暴力。
「わかる?他人に変えられて、手に入らなくなってから好きになった僕のやるせなさ。家の人形だったあなたに興味なんかなかった。それが七海や灰原と一緒にいるうちにどんどん可愛くなって、気付いたら惚れてたよね。でもその頃には手遅れよ。だって告白なんてしたら、天下の五条 悟自ら後輩相手に負けを認めるようなモンじゃん」
「なんつー高飛車クソ野郎なの!?」
「煩いよ。嫌だったの!他人の色に染まった女に本気になってみっともないだろ!」
「最低!ほんと最低です先輩!最強から最低にジョブチェンジして下さい!」
「最低最低言うなよマジで傷付いてんだからな!」
「知るか最低呪術師!」
仮にもここは学校の中だというのに、二人はお構い無しに大声で叫び合っている。
いい歳の大人か恥ずかしい限りだが、いつかこういう日が必要だったのだろう。隠した恋心と、気付かぬ真実を厚かましくぶつけ合う日が。
そうしないと、きっとどこかで”いつも通り”が破綻してしまうから。
些細なぎこちなさが、決定的な決別につながる前に。
「僕、君の先輩なんですけど!?目上の人間にそんな口利く子じゃなかったでしょ!」
「すみませんね!主人が意外と口悪いもので!うつりました!」
「主人ン!?くっそ……、ちょっとあなた、一回僕のこと”あなた”って呼んでみてよ」
「嫌ですよ気持ち悪い!」
「じゃあ”悟さん”でもいいよ」
「いーやーでーすー!」
「あーもう!そうやって生意気ばっか言うようになって!いつの間にか普通にニコニコするようになっちゃってさ!なんでそんな風に変わるかなぁ……。そりゃ好きになるじゃん馬鹿!」
捨て台詞のようになるのが癪だが、用件が済んだので立ち去ろうと五条は歩き出す。あなたの脇を抜け、教室の出口に向かおうとしたその歩みを、細腕が制止した。掴まれた腕に掛かる力は意外と強く、そういえばこの後輩は格闘が得意で、他の女の倍は力も強い。
引き止められるような形になって、五条は反射的にあなたを振り向く。
「私、五条先輩のことそういう目で見れません。ごめんなさい」
「……知ってんだけど」
律儀に告白の返事をする彼女にバツが悪くなって、五条は顔を逸らして舌打ちをかまして強がった。あなたはそんな反応にも慣れているのか、関係なく続ける。
「でも、先輩としては頼りにしてますし、何より感謝してます」
「そう?」
「はい、だって先輩がいなかったら私はここに立ってませんし、生徒たちと会うこともなかった」
あなたを高専に誘ったのは、彼女の精神が心配だったからだ。そして、七海がいつ帰ってきてもすぐ会えるように、そばに置いておこうと思った。
その時さえ、好意は募っても具体的な関係になろうとか、七海から掠めとってやろうとか、そういうことはあまり考えなかった。───どう足掻いても奪えないとわかっていたから。
「だから、ありがとうございました」
あなたは満面の笑みで五条に向き合う。
今頃許嫁から夫婦になっていたとしたら、こんな表情を向けてもらえただろうか。自分の力で、あなたに人の心を取り戻させてやれただろうか。
「今更礼なんていらないの、……ほんと、可愛くなったよねぇ。女の子は恋すると変わるわ」
「男の人は変わらないんですか?」
「変わるよー。僕はあなた以外の女の子により不誠実になったし!」
「クズ方面に変わるなんてやっぱり最低ですね」
「まーた傷付くこと言う!」
慣れかもしれないが、きっとこの関係が一番心地良いのだ。
そう思いながら、五条は沈み始めた太陽を合図に、校内の施錠へ向かうためあなたと並んで教室を出た。
※
「ただいまー」
「おかえりなさいあなた。一日お疲れ様でした」
「……ん、建人もお疲れ様」
帰宅すると、先に帰ってきていた七海がリビングから出てきた。玄関先でおかえりなさいのキスをして、二人揃ってリビングへ戻る。
今日は七海がやる気を出したらしく、温かい夕食の香りがしている。
どこで覚えたんだか、再会した七海は随分な料理上手になっていた。もともと食に対するこだわりが強いし感覚も繊細だから、こうなるのは自然かもしれない。
「美味しい!これ蜂蜜入ってる?」
スープを喉に流した時に感じた風味の由来を辿ると、七海が驚いて目を大きくした。
「よく分かりましたね」
「なんかふわっと蜂蜜の味した気がして」
「隠し味のつもりでしたが……。何故こういうところばかり敏感なんだか」
「?」
呆れたように肩を竦める七海の言葉は、妙に含みがある。あなたが首を傾げると、彼はきゅっと瞳を絞って揶揄いの笑みを浮かべた。
「私や五条さんの好意もそれくらい過敏に察してもらいたいものだ」
「ぐっ…………!!!」
なんの心構えもなしに聞いた発言に、気管が突然収縮した。吹き出しそうになったスープを何とか飲み込めば、変なところに入って反射的に咽る。
「ゲホッ、……建人、っ、ちょっと……!」
「ああ、すみませんタイミングが悪かったですね」
「けほっ、けほっ……!な、何言うのいきなり!」
「いえ、さっき五条さんから電話がありまして。あなたが全然人の気持ちに気付いてなかったと嘆いていましたから。舌くらい繊細だったら苦労しないのにと思ったんです」
「は……、はあァ!?なんでそんな情報共有してるの!?あれ、私もしかして遊ばれてる!?」
自分の知らないところで行われた謎のやり取りに、あなたは五条の意図が掴めずぐるぐると被害妄想を膨らます。
しかし七海は平然とした顔で、可愛い婚約者の考えを否定した。
「いいえ、五条さんの告白は本気ですよ。呪術師に復帰するまでは確信がありませんでしたが、あの馬鹿なりに……貴女のことは本当に大切にしているようだ。まあ人格のせいで全く真剣みは感じませんけどね」
「え、建人は前から気付いてたの!?」
「勿論です。プロポーズの後で思いっきりドヤ顔してやりました」
「わ、私だけ、蚊帳の外に……!」
「これ程鈍い女性に本気になってしまったという点では、五条さんに同情しますよ」
「ひどい!」
いつから察していたか知らないが、七海も五条も、今までどんな顔で互いを見ていたのだろうか。そして、それになんの違和感も覚えなかった自分は大丈夫なのか。
「しかし、四年不在にしてもあなたが寝取られていなかったのは幸いでした」
「いやいや何年あろうが乗り換えませんけど。そういえば五条先輩、”他人に変えられた女に惚れるなんてみっともない”って言ってたなぁ……。そもそも建人と張り合う気なんてなかったのかも」
「……なるほど、不戦勝か。気分がいい」
七海は、何故かとても嫌味な顔で笑った。
この表情は知っている。子どもを諭す大人のようでいて、それなのに妙にギラついた、その目は。
───危険の前触れだ。
「なら、せめて勝者の務めです。……骨の髄まで私が変えて差し上げます」
ひくっ……。
甘い凶兆に指先が震えた。
「五条先輩の中では……、灰原くんも私を変えた人に入ってるらしいけど……」
「ふむ、二人分ですか。今夜は大変だ」
「……あ、何言っても駄目っぽい」
※
「あなたー、大丈夫かー?」
「だいじょうぶじゃないです……」
次の日、出勤したはいいが身体が重くて硝子に泣きつくあなたがいたとかなんとか。
………………………………………………………………………………………
【あとがき】
五条先輩の片想い決着。
歌姫先生や硝子さんに死ぬ程笑われつつ居酒屋で励まされて欲しいです。
あと、毎回思うんですが……
うちの七海建人は絶倫過ぎるな。












編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!