季節は、静かに巡る。
冬の名残を残した空気が、体育館の中に薄く張りついていた。
高校最後の大会。
コートに立つ治の背中を、侑は正面から、逃がすまいと見つめていた。
いつもと同じはずの背中。
同じユニフォーム、同じ姿勢、同じ距離。
それなのに_____今日に限って、やけに遠く見える。
この試合が終われば。
この一瞬が過ぎ去れば。
バレー選手としての「宮治」は、一区切りを迎える。
その事実が遅れて胸の奥に落ちてきて、ぎゅっと締めつけた。
呼吸が少し浅くなる。
なのに、頬を伝うものは止まらなかった。
笑っているのに、泣いている。
声を出したら壊れてしまいそうで、侑は歯を食いしばった。
目の奥が熱い。
けれど、目を逸らすつもりはなかった。
_______悩めたことが、嬉しかった。
同じ道を進む以外にも、選択肢があったこと。
それを、逃げずに考えられたこと。
簡単に答えを出さず、立ち止まれたこと。
そして何より、
それを支えてくれる存在が、隣にいたこと。
治は、ほんの一瞬だけ指先を開いた。
ボールに触れる感触。
床を蹴るときの反発。
耳に飛び込んでくる、侑の声。
全部、ひとつも零さないように、体の奥に刻み込む。
これが、最後。
試合終了の笛が鳴った瞬間、胸の奥が強く軋んだ。
泣きたい。
叫びたい。
なのに、口元は自然と笑っていた。
侑が見ている。
その事実が、治の背筋を伸ばした。
前を向かせた。
(……ああ)
こんなふうに悩めたのも。
選ぶことができたのも。
全部、侑がおったからや。
バレー選手としての自分は、ここで終わる。
けれど、何かを失った感覚はなかった。
治は、コートの真ん中で深く息を吸い込む。
肺の奥まで、冷たい空気が入ってくる。
(……ほんま、ええ時間やったな)
隣を見れば、侑が笑っている。
治と同じ顔で、同じように笑っている。
けれど、その目だけは、今にも溢れそうで。
「なぁ、ツム」
「……っ、なんやねん……」
「俺な、バレー辞めるのを悩めて幸せやったわ」
侑は答えられなかった。
喉が詰まって、言葉が出ない。
視線を上げると、観客席に北の姿が見えた。
腕を組んで、静かに頷いている。
アランもいる。
コートの外には、烏野の連中。
ネットのこちら側には、角名や銀、頼もしい後輩たち。
そして、すぐ隣には、胸の1番をぎゅっと握りしめながら、声を殺して泣く片割れ。
「何泣いとんねん、アホ」
俺は、稲荷崎でバレーができて、ほんまによかった。
それから先、二人はそれぞれの道を進み始めた。
治がコートから一歩引いた、その少し後。
侑は、治のいないバレーを始めた。
最初の数週間は、正直、最悪だった。
人間関係。
バレー以外の仕事。
税金、取材、ファンミーティング。
バレーをするためには、バレー以外のこともこなさなければならない。1試合やるだけでも、動く金は安くない。
高校生の頃のように、熱だけで突っ走ることは許されなかった。それが今までの侑には足りなかったもの。
だからこそだろう。
新しい環境になって、バレーが不調になったのは。
新しい体育館は、相変わらず広く、床はよく磨かれていて、ネットの高さも変わらない。
なのに、セットは乱れる。
タイミングが合わない。
スパイカーが悪いわけじゃない。
自分が悪い。
それは、痛いほど分かっていた。
『惜しかったなぁ』
『大丈夫』
『もっかいやってみよか』
先輩のその言葉が、胸の奥をひりつかせる。
怒られない。
責められない。
代わりに、やさしくされる。
(……ちゃうやろ)
喉まで出かかった言葉を、何度も飲み込んだ。
怒鳴ってほしかった。
出来てないって、はっきり言ってほしかった。
やさしさは、余裕の証だ。
その余裕を向けられるたび、自分の小ささだけが際立つ。
_______優しさは、今の侑には重すぎた。
治がいた頃は、こんなことで悩んだことはなかった。
合わなければ言われたし、言い返した。
ぶつかって、喧嘩して。
それでも次の一本で合わせてきた。
それが当たり前だと思っていた。
更衣室で一人、膝に肘をついて俯く。
(……俺、ちっさいな)
情けなさが身体を蝕んでいく。
生まれて初めて、バレーが嫌いになりそうだった。
(……サムがおったら、楽しかったんやろか)
そんな考えばかりが浮かんでは消える。
今の姿を、治はなんて言うだろうか。
笑うか?馬鹿にするか?
いや_______
_____自分のバレーは間違ってない。
治がいなくなったからといって、トスの軸が変わるわけじゃない。ボールのサイズが変わったわけでもない。
スパイカーに尽くすという根本が、揺らぐわけでもない。
恨んだ。
怒った。
分からないと思った。
それでも最後に残ったのは、
信じるしかない、という答えだった。
治の選んだ道も。
自分の選んだ道も。
一方で、治もまた、別の場所で壁にぶつかっていた。
調理の専門に進んで、現実を知った。
包丁の持ち方。
火加減。
段取り。
全部、思ってたよりずっと難しい。
火加減ひとつで味が変わる世界は、バレーよりもずっと繊細で、正解が分かりづらい。
『宮、もう一回やり直し』
その一言に、内心で歯を食いしばる。
簡単だと思ってたわけじゃない。
それでも、想像以上に厳しかった。
評価はすぐにはついてこない。
結果が出るまで、時間がかかる。
一本決めれば歓声が上がる世界とは、あまりにも違う。
当たり前や。
新しい世界なんやから。
認められるまで時間がかかる。
結果が出るまで、耐えなあかん。
それでも、不思議と投げ出したいとは思わなかった。
好きなものを追えば追うほど、好きの度合いは増していく。
包丁を持つ手に、かつてボールを追っていた感覚が重なる。
上手くなりたい。
認められたい。
負けたくない。
その闘争心は、確かにバレーで育ったものだった。
(あんだけ啖呵切ったんやから。
……胸張って言えるようにならなあかんな)
いつか、侑に。
「俺のほうが幸せやった」って。
そのために、ここで負けるわけにはいかん。
そう思うと、自然と背筋が伸びた。
時間は流れる。
会う頻度は減った。
背丈も、立場も、生活も変わった。
眠れない夜、ふと考えることはある。
あのまま続けていたら、どうなっていたやろ、と。
けれど、答えはいつも同じところに戻る。
やらされることは、楽しくない。
好きこそ物の上手なれ。
好きなものを追うことは決して楽ではないけど、楽しい。自分で選んだ道だから、踏ん張れる。
侑がコートに立てば、治が作った身体がそこにある。
治が飯を作れば、自然と侑の顔が浮かぶ。
道は違っても、根っこは同じだ。
季節は巡る。
花は散って、また咲く。
そして_________
「いらっしゃ……って、なんや。ツムか」
「邪魔すんで〜」
「邪魔すんねやったら帰って〜」
「ほな帰るわー…ってなんでやねん!」
おにぎり宮のカウンター越しに目が合えば、
昔と何一つ変わらないやり取りができる。
形は変わった。
けれど、失われなかったものがある。
ライバルで。
兄弟で。
仲間で。
手を取らなくても、
背中を預けなくても、
同じ方向を見て歩いていける。
「この道でよかった」と心の底から言える日が来るまで、道は直接交わらなくても、ふたりで歩んでるということは変わらない。
侑じゃなきゃあかん。
治じゃなきゃあかん。
この関係だけは、
何が変わっても、変わらなかった。













編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!