第9話

【八】急天
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2025/04/27 01:00 更新
 2012年夏。
 ハルヤはいつも朝起きるのが嫌だった。

 朝に起きて、味の濃いご飯を食べて、保育園に行く。保育園が本当に好きではなかった。人間はみんなうるさいと思っていた。

ユキ ハルヤ、もう出れる?

 母親のユキはハルヤを送ってからその足で仕事に向かうらしく、いつも朝はとても忙しそうだった。

ハルヤ うん、はやくいこ!
ユキ そっかぁ。じゃ、車で待ってて、すぐ行くから。
ハルヤ はーい。

 ユキはハルヤに車のキーを渡した。
 言葉を読むのはまだ苦手なハルヤだが、このキーに描いてある「NISSAN」はにっさんと読むのだと教わったので読める。少し言いにくいのでいつもにーちゃんと呼んでいた。大きくて綺麗な色で、静かなこの車が好きだった。

 ハルヤの身体にはまだ少し大きいジュニアシートに乗り込み、キーを掌でくるくるして遊んでいると、ユキがやってきた。

ユキ よっしゃ行くよ〜!!あ、キーちょうだい。
ハルヤ はい。

 ユキはシートベルトを締めて、チャイルドロックを確認してから運転席に回り込む。

ユキ 出発、しんこ〜!!
ハルヤ おー!

 ハルヤは、ユキの笑顔のために自分から笑顔になる。

 保育園に着くと、担任である保育士が明るく出迎える。

保育士 おはよーございます。ハルヤくん、おはよ!
ハルヤ おはよー!!
保育士 ほい、みんなのとこ行っといで。
ハルヤ はーい!

 ハルヤはテラスで遊んでいる園児たちのなかに駆け込んでいく。

ユキ では、お願いします。
保育士 はい。今日園長がいないので、お迎えは直接年長さんの教室でお願いしますね。
ユキ はい。

 ユキは車に戻り、音楽をかけながら仕事に向かう。この曲はハルヤの苦手なロックだから、この時間にしか聴けない。

保育士 ほいほいみんなー!中入ってー!!

 保育士が声をかけても、保育園児なんてそうそう言うことは素直に聞かない。しかし保育士というのは子どものプロ。

保育士 最後に教室入った人が負けねー!!

 そう言いながら保育士は教室に駆け込む。
 すると、純粋で単純な園児たちはすぐつられて走り出す走り出す。

 ものの数分足らずで着席が完了した。

保育士 それじゃあ、今日は―

 日常は、日常として変化することなく続いていく。
 ハルヤはその日々が退屈だった。
 幼いながら、言葉にはできないながら、ただなんとなく人間であることに違和や無理を感じていた。でもだからといって変えることもなく、変えるすべも知らず生きている。

 午前中の時間は工作の時間だ。春は外遊びだが、夏の外遊びは夕方になっている。

 トイレに行きたくなった。

ハルヤ トイレいく。
保育士 あ、はーい。気をつけてね、ハンカチ持った?
ハルヤ ……あ、忘れてた。
保育士 ちゃんと手洗うんだよ〜。

 ハルヤは長い廊下を歩く。団地の一階にあるこの保育園は、廊下がとにかく長い。トイレは中央にあるが、このしんとした廊下は少し怖かった。

ハルヤ ?

 ハルヤはトイレを済ませて手を洗っていると、トイレの奥、用具入れの向こう側の扉が開いていることに気づいた。
 とくに気にならないと思っていたが、無性に気になってきた。気づいたら、扉の外に出てしまっていたくらいには。

 扉を出ると、そこはもう裏手が山。ハルヤはその小さな身体で、獣道を突き進んだ。

 木漏れ日が揺れる土は、踏むたびにみしっと軽くつぶれるような音がして、夏なのに涼しい風が吹く。危ないから、とユキはあまり近づけさせてくれないが、けっこう楽しいものだと思った。

ハルヤ あ。

 しばらく進んだところで、ハルヤは猫を見つけた。ハルヤでもわかる、まだ仔猫だ。
 ハルヤは仔猫を木の上から見つめるカラスの存在に気づいていた。

 ハルヤは仔猫の前に立ちはだかり、カラスに向かって落ちていた枝を投げた。

 カラスが飛ぶ。
 その羽の音がやんでも、まだ木の葉はざわついていた。

 その刹那、ハルヤの前に現れたもの。
 それが、熊だった。

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