2012年夏。
ハルヤはいつも朝起きるのが嫌だった。
朝に起きて、味の濃いご飯を食べて、保育園に行く。保育園が本当に好きではなかった。人間はみんなうるさいと思っていた。
ユキ ハルヤ、もう出れる?
母親のユキはハルヤを送ってからその足で仕事に向かうらしく、いつも朝はとても忙しそうだった。
ハルヤ うん、はやくいこ!
ユキ そっかぁ。じゃ、車で待ってて、すぐ行くから。
ハルヤ はーい。
ユキはハルヤに車のキーを渡した。
言葉を読むのはまだ苦手なハルヤだが、このキーに描いてある「NISSAN」はにっさんと読むのだと教わったので読める。少し言いにくいのでいつもにーちゃんと呼んでいた。大きくて綺麗な色で、静かなこの車が好きだった。
ハルヤの身体にはまだ少し大きいジュニアシートに乗り込み、キーを掌でくるくるして遊んでいると、ユキがやってきた。
ユキ よっしゃ行くよ〜!!あ、キーちょうだい。
ハルヤ はい。
ユキはシートベルトを締めて、チャイルドロックを確認してから運転席に回り込む。
ユキ 出発、しんこ〜!!
ハルヤ おー!
ハルヤは、ユキの笑顔のために自分から笑顔になる。
保育園に着くと、担任である保育士が明るく出迎える。
保育士 おはよーございます。ハルヤくん、おはよ!
ハルヤ おはよー!!
保育士 ほい、みんなのとこ行っといで。
ハルヤ はーい!
ハルヤはテラスで遊んでいる園児たちのなかに駆け込んでいく。
ユキ では、お願いします。
保育士 はい。今日園長がいないので、お迎えは直接年長さんの教室でお願いしますね。
ユキ はい。
ユキは車に戻り、音楽をかけながら仕事に向かう。この曲はハルヤの苦手なロックだから、この時間にしか聴けない。
保育士 ほいほいみんなー!中入ってー!!
保育士が声をかけても、保育園児なんてそうそう言うことは素直に聞かない。しかし保育士というのは子どものプロ。
保育士 最後に教室入った人が負けねー!!
そう言いながら保育士は教室に駆け込む。
すると、純粋で単純な園児たちはすぐつられて走り出す走り出す。
ものの数分足らずで着席が完了した。
保育士 それじゃあ、今日は―
日常は、日常として変化することなく続いていく。
ハルヤはその日々が退屈だった。
幼いながら、言葉にはできないながら、ただなんとなく人間であることに違和や無理を感じていた。でもだからといって変えることもなく、変えるすべも知らず生きている。
午前中の時間は工作の時間だ。春は外遊びだが、夏の外遊びは夕方になっている。
トイレに行きたくなった。
ハルヤ トイレいく。
保育士 あ、はーい。気をつけてね、ハンカチ持った?
ハルヤ ……あ、忘れてた。
保育士 ちゃんと手洗うんだよ〜。
ハルヤは長い廊下を歩く。団地の一階にあるこの保育園は、廊下がとにかく長い。トイレは中央にあるが、このしんとした廊下は少し怖かった。
ハルヤ ?
ハルヤはトイレを済ませて手を洗っていると、トイレの奥、用具入れの向こう側の扉が開いていることに気づいた。
とくに気にならないと思っていたが、無性に気になってきた。気づいたら、扉の外に出てしまっていたくらいには。
扉を出ると、そこはもう裏手が山。ハルヤはその小さな身体で、獣道を突き進んだ。
木漏れ日が揺れる土は、踏むたびにみしっと軽くつぶれるような音がして、夏なのに涼しい風が吹く。危ないから、とユキはあまり近づけさせてくれないが、けっこう楽しいものだと思った。
ハルヤ あ。
しばらく進んだところで、ハルヤは猫を見つけた。ハルヤでもわかる、まだ仔猫だ。
ハルヤは仔猫を木の上から見つめるカラスの存在に気づいていた。
ハルヤは仔猫の前に立ちはだかり、カラスに向かって落ちていた枝を投げた。
カラスが飛ぶ。
その羽の音がやんでも、まだ木の葉はざわついていた。
その刹那、ハルヤの前に現れたもの。
それが、熊だった。












編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!