第3話

冬眠
408
2025/07/13 10:30 更新






やめて、やめて、やめてくれ 。お願いだから 。







声に成らなかった声は、

頬を伝う雫として排出された 。







喉が焼けつくように熱く、肺が縮こまり、

空気を吸うにも吸えない 。







ここに酸素というものはあるのか 。

そう、疑う程に 。







足は震え、腰が砕けそうで、

それでも一歩も動けなかった 。







母の体が、鬼の腕の中で藻掻いていた 。








鬼は愉悦に浸っているような顔をした 。

その口は耳まで裂け、

まるで仮面のような笑みを浮かべていた。







赤黒く染まった牙の隙間から、

母の髪の毛がだらりと垂れている 。







華奢な母の肩にその牙が突き立つ 。







骨が砕ける音、肉が裂ける音が混ざり合い、

耳の奥で反響する 。








血が飛んだ 。

ぬるりと頬に飛び散った液体は温かくて、

生きた人間の体温を宿していた 。







あなた
... あ、あ...







その隣で、父もまた、床板に倒れていた 。








胸を裂かれ、目だけがこちらを見ていた 。

助けたかったのだろう、守りたかったのだろう 。







しかし間に合わなかった 。

父の瞳に映っていたのは、鬼ではなく私だった 。







自分は、何もできなかった 。

この手で、何も守れなかった 。








鬼は、母の喉に喰らいつき、

体を半分ほど引きちぎった 。







臓腑が地面にこぼれ、

赤黒い液がじゅくじゅくと滲んだ 。








母の口は、何かを言おうとしていた 。

私の名前だったかもしれない。







けれどその声は、血で溺れて、何も聞こえなかった 。








目の前で、家族が喰われている 。

ただそれだけが現実だった 。








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