彼を見つけたのは十数年前のあの日だった。上流に街がある川の入り江に、大量の瓦礫が流れ着いていたのだ。何か大きな災害、もしくは戦いが起こっているのだろうと推測した鬱は、なけなしの魔力を使って森に保護の結界を貼り、溜まっていた瓦礫の除去を始めた。
その中で一つ、小さなバスケットを見つけたのだ。そこにいたのは毛布に包まれた小さな赤子。魔法使い特有の魔力のオーラはなく、完全なる人の子だった。
その赤子の体はすでにかなり冷たくなっており、このままでは命の灯火が失われてしまう事は明らかであった。鬱は少し悩んだものの彼に回復魔法を施し、赤子を生き永らえさせることに成功したのだ。
彼がためらった理由としては『人間に魔法を使用すると対象に悪影響が及ぶ』という噂が魔法使いの間でまことしやかに囁かれていたのを知っていたからであり、鬱自身、回復魔法は使った事が無かったというというものでもある。
とはいえ一人の子供の命が救われた。
しかしその子供を置いて帰れば鬱が魔法をかけてまで救った意味もなくなってしまう。鬱は再度、今度は先ほどより時間をかけて悩み、赤子を家へと連れて帰った。彼はバスケットに書かれていたイニシャルから推測したものを赤子へ名前として与え、自分の分身かのように毎日可愛がった。
ちなみに、今まで鬱の愛を一身に受けていたねこひよこが嫉妬していたことは秘密だ。
とにかく、その赤子はすくすくと育ち一瞬で誰もが振り向く好青年へと成長。すこし喧嘩っ早い所もあるが情に厚く義理堅い彼との日々を鬱は満喫していた。
自分のコンプレックスを話せば彼は明るく笑い飛ばし、鬱に
『もっと魔法が上手く使えるようになる』
という将来への約束を作らせたこともある。
好奇心旺盛な彼に鬱は振り回されつつも楽しい生活を送っていたのだ。
しかし、そんな生活に影が差す。
きっかけは子供が外の世界を見たいと言い出したために森から街に向かうことを許可したら、彼は外の世界へ入り浸るようになってしまったことだろう。
彼は外の世界へと足を踏み出すと同時に、外では世界が大きな戦争に巻き込まれていること。そしてそれに協力せず、それどころか一人でのうのうと暮らしている鬱を少しずつ嫌い始めた。
『アンタは自分のことばっかりだ』
自分なりの生き方を探しつつ幸せを掴もうとしていた鬱はこの言葉に大層傷つき、これ以上お互いの確執が深まることを避けるために子供が街に行くことを禁止した。だがこれが良くなかったのだろう。子供は鬱に対する反発をさらに強め、最終的には鬱が眠っている間に家から飛び出してしまったのだ。
外が苦手な鬱は街へ繰り出して子供を探す勇気もなく、黙って子供の帰りを待った。しかし、何年経っても帰ってこない。相手は恐らく記憶もないのだろう。八年も前のことだ。致し方がない。それに今更探し始めたとしても、八年前に行方不明になった男をどうやって探せというのか。
男子三日会わざれば刮目して見よとも言うし、自分の記憶力と想像力であれから八年後の容姿を考えられる気がしない。
なにせあまりに綺麗な顔立ちのせいで、記憶に残らないイケメンだったためそれも捜索の邪魔をするだろう。
そんな言い訳を重ねて外に出ない理由を重ね、鬱は自堕落な生活を送っていた。寝て起きて食べて、自分は何もせずにあちらからこちらに来てくれる時を期待する。
ここ一年ほどは外に軽く散歩に出かけて動物とコミュニケーションをすることも多くなってきたが、それでも内向的な男である。調子のいいときにしか働かないのは生まれながらの悪い癖だ。
それに変化があったのが少しにトントン達がやってきた時だった。八年ぶりに会った人間に気分が高揚し、嬉しくて思うがままに行動してしまったため何か失礼をしてしまったのかもしれない。事実、彼等はもうここにやってきてくれる事は無くなった。
一度希望を見せられた後の絶望はより酷く当人に爪痕を残すものだ。その絶望がどれだけ規模の小さいものでもそんな感覚になるのは変わらないと頭で理解してはいるものの、そんな理解で心が変わる訳もない。反抗期の理由を知っても親に反発したくなることと同じだ。避けようの無いことなのにそれは鬱の心に深く杭を打ち込み、絶望という感情の底から上がることができなくなってしまった。
彼は緩やかな手つきで野菜を切っていく。
最近は料理をしっかりする意義も失ってきていたが、もし料理をしないという生活を始めれば自身の生活が崩壊することなどは容易く理解できたため、何も考えずに均等に野菜を切り刻んでいった。
最近は鬱の心のように森の霧も色が悪い。
自分の気のせいなのだろうがなんとなく灰色で、雨の前の曇天をイメージさせるのだ。こんな表情の天気ばかり見ていてはどんな人物も心を病むだろう。それが傷付いている者なら尚更だ。自分が落ち込んでいる責任をなんとなく天気に押し付けてみて、自分の惨めさにまた自尊心が傷付いた。
ねこひよこも元気がない。当たり前だ。あれは自分の分身のような存在であり、精神こそ分離すれど基本的な性質は製作者に左右される。製作者が死ねば使い魔も死ぬのだ。それならある程度の感情のリンクなんてもはや無いほうが不思議だろう。
人参を輪切りにしていれば、形が歪であることに気付く。
「これでは上手く火が通らないな」
なんて事を考えながらその歪みを正そうとすると、いきなり目眩に襲われる。手に力が入らず、鬱はまるでスイッチが切れたかのように床に座りこんでしまった。指先からピリリと静電気のような痛みが床まで走り抜け、脳が揺れるような頭痛に襲われる。
少しフラつきながらも立ち上がり、もう一度ナイフを手にする。そこで、人参がなんだか嫌に赤い事に気がついた。
よく見ると指先がザックリと切れているではないか。
恐らく先程の目眩でナイフを取り落とした際にやられてしまったのだろう。回復魔法をかけようとするが、何故か手が止まった。鬱は、指先から滴り落ちる血液をじっと見つめる。
身体的な痛みが、孤独に喘ぐ鬱の心の痛みを少しだけ洗い流してくれるような気がしたのだ。
ほんの僅かに心が軽くなり、そして正気に戻る。
今のはただ心の痛みが紛らわされただけで、本当に無くなった訳ではない。単純なものに騙されて自分の身体を傷つけてはいけない。そう心に言い聞かせた。
赤く染め上げられるまな板をしばらく見つめて、鬱は回復魔法をかけた。新しい皮膚が傷口を覆い、本来なら残りそうな傷跡すらもまるでなかったことにされる。便利な魔法だが、鬱自身も原理をよく理解していないため本能的な恐怖を感じることもある。とはいえ怪我をしたときに悠長に治るのを待っていては一人暮らしも上手くいかないものだ。
キッチンを汚した血を洗い流し、深呼吸をしてナイフを持つ。先程の事を思い出さないようにしていたのだが、無駄な努力だったようだ。目を閉じると瞼に先の景色が浮かぶ。
怪我をして気持ちが楽になるわけがないのに。
それでも、何故か心が浮ついたのだ。怪我をすることで心の痛みは少し無くなった気もするし、怪我という罰を受けて自分の過ちが赦されるような感覚もあった。自分の罪が無くなることは無いというのに。
もしかしたら回復魔法があるから怪我に対する抵抗が薄れているだけかもしれない。この思いは現実ではないのだ。あってはならない。
もう一度、なんて思ってはならないことだ。
自分の体から血が流れ出たら、少しは自分の愚かさも浄化されるだろうか。なんてありもしないことを考えてしまう。
多少疲れているだけだ。頭では分かっているのにそれを受け入れるほど心に余裕はなかった。
少しだけ。少しだけだ。
鬱は震える手でナイフを握り直した。











編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。