第6話

第六話 波紋と成長
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2025/08/14 21:00 更新



秋は静かに深まり、吹奏楽部の練習もいよいよ佳境に入っていた。課題曲と自由曲の完成度を高めるため、部員たちは各々の役割を磨きながら、全体としての響きを追求していた。
小さな摩擦と、そこからの広がり
ある夕方、木管アンサンブル練習中に、後輩の藤井茜が課題曲のソロ部分で音程を外してしまう。緊張が全体に伝播し、一瞬部室の空気が重くなる。愛梨はすぐに声を掛ける。
「大丈夫、今のはリセットして、もう一度いこう」
と優しく伝えると、茜は驚きと安堵の表情を浮かべた。そして再度音を出すと、不安定だった呼吸が整い、より柔らかく響く音へと変わった。
摩擦を感じた瞬間ですら、人と人、音と音が寄り添い合うことで、響きの奥行きが広がる。それを、愛梨は確かに実感していた。

練習後、顧問の桶結先生が愛梨と颯太に近づく。「今の茜とのやり取り、とても良かった」とまず言い、そのあとに続けた。「でも、もっと上を目指すなら、“音の空気感”にも注意を払って。特に長いフレーズを吹くとき、呼吸と音の“動き”を演出できると、音に生命が宿るわ」と語った。
先生の言葉は、呼吸と音の連動性、そして「空気の質そのもの」が表現に深みを与えるという気づきをもたらした。


愛梨は桶結先生の助言を胸に、呼吸法と音質を再構築する作業に取り組む。特に長いソロの立ち上がりでは、胸や肩ではなく、腹部の下――肺の底部から息を導くように意識した。
これは呼吸を「空気の動き」として使い、音の背骨を構築する方法だ。リチャード・ヤコブスの唱えた「風としての呼吸」を念頭に、肺の底から自然に息を押し出すような感覚を試みた。また、下腹部から肺を満たす「横隔膜呼吸」は、演奏の深みと安定感につながることを再認識した 。


その後、練習中に再び茜が近寄ってきた。「先輩、教えていただいた呼吸、どうやって習慣にしたらいいですか…?」と小声で訊いてくる。
愛梨は譜面台を指し、「まず、一拍、深く吸ってリセットするために“三つのグラウンド”を試してみて」と答えた。これは演奏前の中心を整えるための呼吸習慣で、身体の重心と地面とのつながりを感じさせる小さな動きだ 。茜が実践すると、演奏の立ち上がりが落ち着いてしなやかになった。


深夜、波紋のように胸の内に広がる不安と葛藤と向き合いながら、愛梨は自分に問いかける。
「私が最も伝えたい音とは、何だろう?」
録音を繰り返し聴き、プロ奏者の演奏と比較することで、自分の音に足りない“空気の質”を感じ取った。フルートの音には、技術や正確さだけでなく、熱や冷たさ、軽やかさや深さなど、多様な色彩がある。彼女はそれを学び取り、自身の音に取り込もうと努めた 。


翌日、部活終盤、高校卒業後に音楽を志すかどうかで迷う茜が口を開いた。「私は、愛梨先輩みたいに、人の心に響く音を出せるようになりたいです」
愛梨はその声に応え、「焦らないで、自分の空気と向き合って。私もまだ旅の途中だから」と答えた。その静かな会話は、言葉以上に深い響きを部室に残した。

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