今なら分かる気がする。
その歌を私だけにくれるのが、嬉しくてたまらない
そう思った瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。
誰かのための歌じゃなくて、
みんなに向けたステージの歌でもなくて、今、ここで。
私だけを見て、私だけに届けようとしてくれている、
その声。同じメロディのはずなのに、
こんなにも違って聞こえるなんて。
「〜〜♫」
少し照れたみたいに笑いながら、
でもまっすぐに目を合わせてくる貴方。
その視線が、声が、全部まるごと、私を包み込む。
ああ、ずるいなあ。
かっこいい曲を歌ってくれるのが嬉しいって思ってた。好きな人がもっとかっこよくなるんだから、歌ってくれたら嬉しいに決まってる。
でも、違った。
“何を”歌うかじゃなくて、
“どうして”歌ってくれるのか、だったんだ。
私が好きだと言った曲を、覚えてくれていたこと。
サビの前、少しだけ息を吸い込むことがわかって、本気で歌ってくれるのがわかること。
その全部が、
「大事にされてる」
って、教えてくれる。
歌声が、胸に触れる。
触れられた場所から、
ぽろぽろと何かがこぼれそうになる。
嬉しくて。
愛しくて。
泣きそうなくらい、幸せで。
「どうやった? ちゃんと歌えてた?」
照れ隠しみたいに聞く貴方に、すぐ答えられなかった。
だって、うまいかどうかなんて、もうどうでもよかったから。
「……ずるいよ」
そう言うのが精一杯だった。
貴方はきょとんとする。
「なにが?」
「そんな顔して、そんな声で、私だけに歌うなんて」
胸がいっぱいで、うまく笑えない。
でもきっと、今の私は
とんでもなく幸せそうな顔をしている。
「また歌ってあげようか?」
軽い調子で言うくせに、その瞳は優しい。
私は少しだけ考えるふりをしてから、
小さく首を横に振った。
「……ううん」
「え?」
「“また”じゃなくて、これからも、がいい」
言った瞬間、顔が熱くなる。
でも、もう止められなかった。
「特別な日だけじゃなくて、なんでもない日にも、私のために歌ってほしい」
うまく言えていないかもしれない。
重たいって思われるかもしれない。
それでも。
貴方の声が好き。
私に向けてくれる、その想いが好き。
少しの沈黙のあと、貴方はふっと笑って。
「欲張りやなあ」
そう言いながら、もう一度、静かに歌い始める。
今度はさっきよりも近くで。
肩が触れる距離で、
私の名前を、歌詞の中にそっと混ぜるみたいに。
世界にひとつだけの歌。
誰にも聞かせなくていい。
上手じゃなくてもいい。
ただ、
貴方の声が、私のために響くこの瞬間があればいい。
恋人に歌ってほしい曲なんて、
きっと本当は存在しない。
あるのは、恋人が自分に向けて歌ってくれるという、
奇跡みたいな時間。
その奇跡を、私は今、抱きしめている。
次は、私が歌おう。
少し震える声でもいい。
うまく歌えなくてもいい。
貴方に向けて、
ちゃんと、愛を込めて。
だってきっと——
この気持ちは、歌にしないと溢れてしまうから。












編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!