俺はルナの気迫に負け、エデュリカを家に泊める事を許した。
最初は断ろうとも思ったが、こちらは一度相手を死なせている身、流石に出来なかった。だから、彼女を家に泊める事を許した。
天井の一角を見つめながら、俺はぽつりと呟いた。
口から漏れた言葉は霧のように消えていき、部屋には沈黙が漂う。
外は日が暮れかけており、空はオレンジ色に染まっていた。山奥にある屋敷だから、のどかな自然の風景しか、窓から見ることができない。
ぼんやりと遠くの景色を眺めていると、部屋に乾いたノック音が響き渡る。
入って来たのは、ルナと俺の姉である鷹宮セレナだった。彼女もまた、昔と何も変わっていない。
彼女は手に持っていたお盆を机の上に置くと、黙って部屋の掃除を始めた。その仕草は非常に洗練されており、頼りがいがあった。
セレナは掃除をする手を止めずに、淡々と事実を言ってきた。
俺は何を思ったのか、突然家出をして迷子になったことがある。その時、母さんが迎えに来るまで、面倒を見ていてくれた女の人がいる。
俺は恩を返す為に、その人を探しによく出かけているのだ。
そんな事を思い返しながら、俺は自分の右頬を擦る。
泣きながら家に帰ったあと、激怒したセレナにビンタされた時の痛さは、今でもはっきりと覚えている。
セレナは「そうですか」とだけ返すと、掃除道具を片付け部屋の出入り口に立つ。おそらく、別の部屋よ掃除をしに行くのだろう。
彼女は俺の方に向き直ると、静かにお辞儀をしてから部屋を出て行った。
俺は机に置かれたお盆に目を向ける。そこには質素だが、とても美味しそうなご飯と、一通の手紙が置かれていた。
神名浩一 様
この度、あなたは不慮の事故によってこの屋敷、神名邸へと戻ってこられました。
身元を調べた所、エデュリカ・エンケファリー様は、英国では名高い高貴なお家の方だそうです。
私とルナで根回しを汗水たらしたお陰で、この件は本国へは渡っておりませんが、事が重大であるが故に、しばらくは世間の様子を見なければなりません。その為、浩一はここから数ヶ月の間は、神名邸で暮らしていただきます。
勿論、恩人探しにも行かせませんので、そのおつもりで。
鷹宮セレナより
手紙を読み終えた俺は、とんでもない人物を轢いたのだと気づいた。まさか、エデュリカが英国で有名な貴族だったとは、思いもしなかった。
万が一、英国で話題に上がっていると知った時を思うと、ゾッとする。
俺は手紙をそっと閉じ、お盆に置かれているご飯に手を付けた。
白米にたくあん、みそ汁とだいぶ質素に見えるが、味はお店で食べるよりも格段に美味しく、十分満足できる仕上がりだった。
食事を終え、洗い物を渡しに行こうと部屋を出る。
廊下には12月だと言うのに、一匹のカマキリがいた。それは、歩くこともせず、ただじっと俺を見つめていた。
俺は虫相手にそう伝えると、すぐ横を通り過ぎる。
一瞬だけ、セレナに似た気配を隣から感じたが、気の迷いだろう。そう自分に言い聞かせ、俺は調理場へと向かった。
調理場には、鷹宮姉妹とエデュリカがおり、各々好きな場所で夕食を食べていた。
俺は洗い物を流し台に置き、専用のスポンジで洗い始める。
冬の調理場はとても寒く、それに加えて夜中なため、水道の水は非常に冷たい。
かじかんだ手を擦りながら、焚き火の近くへと手をかざす。氷が溶けるかのように、じんわりと温かい空気が手を包んでいく。
焚き火の温度でのんびりと温まっていると、調理場の扉が開く音がした。
俺は反射的に、音がした方に視線を向けてしまう。
入り口には、この家で一番見慣れた人、俺の母親が立っていた。
錦蓮子――俺の母親にして、最も会いたくない人物。
母さんは特に気にする素振りも見せず、夕食が置かれたお盆を手に持つと、ルナたちと同じ机を囲み、黙々と食べ始めた。
母さんの声が聞こえる度、俺の身体はビクリと跳ねてしまう。幼い頃ころから、どうしても母さんの声は慣れない。
心を覗かれているような、相手に操られているような気がして、落ち着けないのだ。
俺は逃げ出すように、駆け足で自分の部屋に向かった。
ただ漠然と、母さんに見られ続けたらいけないと、そう感じた。
過去に暴力を振るわれた訳でも、何でもない。無償に逃げ出したくなった。ただ、それだけだった。















編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!