第5話

名前
92
2023/04/03 03:35
カランカランともう聞き慣れた鈴の音がする。
マスター
いらっしゃい
見慣れたバーの店内に1人マスターがグラスを拭いている。4時ということもあり、客は俺以外居ない。
マスター
源くん、仕事は?
頼んだサンドイッチをカウンターに置きながら、そう訊いてくる。小さなものだが、マスターからの初めての質問に嬉しく感じた。
鷹志
休憩中なんです
事実ではあるが、僕の職場は社員の自由を大切にしている。仕事さえこなせば休憩はいつしてもいい。マスターが納得したように頷く姿を見て、会社で気になっていたことを思い出す。
鷹志
そういえばマスターの名前、僕知らないですね。教えてもらえますか?
マスター
えっと...それはちょっとダメ、かな
すぐ教えてくれるとも思っていなかったので、慌てずにサンドイッチを一口食べる。
鷹志
ダメですか?
マスター
お客様という関係上...
鷹志
なら、客じゃなかったらいいんですね?
マスター
いや、そうだけどそうじゃなくて...
どう伝えようか悩んでいるマスターの手を取る。ビクッとさせた後、瞬きを繰り返していた。
鷹志
僕、マスターと一緒に買い物に行きたいんです!
思ってもいない嘘をつく。マスターの本名を教えてもらう為なら、嘘だろうと構わない。使える物は使わなければ勿体無い。
マスター
それは...
鷹志
お願いします。マスター
頼まれれば断れないタイプと見て、マスターを見つめる。しばらく目を泳がせて、迷って導き出した返答はこうだった。
マスター
...少しだけ時間をください
鷹志
分かりました
タイミングよく客が入ってきたので、話はそこで終わった。マスターは客の相手をしており、僕は1人で残りのサンドイッチを食べていた。時間が経っても変わらずサンドイッチは美味しい。
結局、名前を聞けなかったことを悔しく思いながらも仕事が残っていたので全て食べ終わった後バーを後にした。
浅瀬
帰って来てから一心不乱に仕事してるな
浅瀬の声が聞こえ、顔を上げる。浅瀬は「なんかあった?」と言いたげな顔でこちらを見ていた。
鷹志
仕事は?
浅瀬
......
浅瀬は質問に答えず、柱にある時計を指差した。浅瀬の意図が分からずに時計に視線を向けると、バーから帰って来てから3時間も経っていた。
浅瀬
いつもならそんなにかかってないだろ
鷹志
うん...。あっ
頷きながら帰って来てからした仕事を見返していると、明日の分までしていたことに気付いた。
浅瀬
どうした?...わぁ
僕の反応に疑問を抱いた浅瀬が、パソコンをのぞき込む。どういう感情なのか分からない言葉を溢している。
鷹志
帰らないの?
浅瀬
帰ってほしいの?
鷹志
彼女と同棲してるって言ってたじゃん
ファイルを閉じながら浅瀬に訊くと浅瀬は幸せそうな顔をしていた。浅瀬は2歳年上の女性と今付き合っており、近いうちに結婚するらしい。
浅瀬
いやぁ〜さくちゃん可愛すぎて〜
鷹志
幸せそうで良かった。なら、早めに帰った方がいいんじゃないか?
浅瀬
声かけなきゃ源、ずっと仕事続けそうだったから
鷹志
それは感謝してる
浅瀬
やること終わったし帰るわ。じゃあな
それだけ言って軽くスキップをしながら、荷物を持って帰って行く浅瀬を見送りながら、僕も帰る準備をした。
鷹志
あれ
引き出しを開けたり、鞄の中を漁ったりするが見つからない。
鷹志
あー...忘れて来た...
探していたのはプライベート用の携帯。記憶を遡りバーに忘れてきたことを思い出した。
鷹志
行くか
その予定はなかったが、誰かに取られる心配もあるのでバーに向かった。

バーにつきゆっくりと扉を開ける。店の中にはマスター以外誰も居なかった。
マスター
どうしようかと思っていました
食器を片付けながら、僕の方を見ずに話しかけてくる。
鷹志
バレてましたか...
マスター
扉が開きましたし気付きますよ
マスターにそう返され、店の中に入る。今日来た時に僕が座っていた席に探していた携帯が置かれていた。
鷹志
良かった...。やっぱりあの時忘れてたんですね
マスターは返答をせずに片付けを続けている。携帯が見つかってバーに残る理由もない。それに無言の空間に居るのは気まずい。頭を下げてからバーを後にしようとした。
マスター
...犬塚いぬづか
鷹志
えっ?
マスター
犬塚時雨しぐれです。俺の名前

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