さて、どうしようか。月ノは腕を組んだ。
目の前にあるのは、それはそれは高い塀。オリバー・エバンス2人分くらいだろうか。荘厳な海は、波音と潮風以外に何も届けてはくれない。きゅうきゅう、と遠くからカモメが鳴く声が聞こえた。
ふん、と月ノは息を吐いて塀に近づく。
不審そうな視線を向ける樋口をよそに、一番飛び出ている岩に足をかけてみた。右手は上、左手は少し離れたところへ。足で強く地を蹴って登ろうとした、ものの。
「うわぁっ」
なぜだか上手く登れなかった。手が滑ったとか、足が上手くかからなかったとか、手が痛かったとか、そういう物理的なものじゃない。なぜかわからない、不可解な力、というのが正しい気がした。
地面に叩きつけられるはずだった体は驚愕の声と共に柔らかいものに包まれた。香水ではない純粋な石鹸の匂いが鼻腔をくすぐる。
「ったぁ…気ぃつけなあかんやん、」
どうやら、バランスを崩した月ノが倒れ込む直前に樋口が助けてくれたらしい。文字通り身を呈して守ってくれたらしく、月ノが樋口に覆いかぶさるような体勢になっていた。乾いた土が冷たく冷えていて、短いスカート越しに体温を奪っていく。礼を言おうと思って顔を上げた月ノは、思わず動きを止めた。
心配そうにこちらを見る宇宙のような紫から目が離せない。優しく細められた目の下にある涙黒子が、ポニーテールと相まって涼しげな雰囲気を醸し出している。猫のように切れ長な目元、すっと通った鼻筋、きゅ、と結ばれた小さな口、柔らかそうなふっくらとした輪郭。月ノの下に滑り込んだ衝撃からか、右に付けているヘアピンが緩んでずれていた。
「…美兎ちゃん、?」
訝しげに声をかけられて我に返る。
あぁ、そうだ、私、何してんだろ。同期の顔を間近で見て、綺麗だ、なんて。
小さく謝って樋口の上から離れる。普段は見ることのない上目遣いがやけに麗らかで、土埃を払うふりでそっと目を逸らした。
「ごめん、痛かったですよね」
「いや、いけるけど、…あ、」
同じように立ち上がった樋口が小さく声を上げる。条件反射のように樋口の方を向くと、彼女の手がそっと頭に伸びてきた。反射的に目を閉じる。右側の髪が優しく引っ張られる感覚がした。
「…ん、できた」
ヘアピンずれてたで、なんて言った樋口は、自分のヘアピンを引き抜き、乱雑にブレザーのポケットにしまった。その手つきに、月ノに触れていた時の優しさはどこにもない。それがひどく腹立たしくて、月ノは思わず彼女のポケットに手を伸ばした。
「うぇ、美兎ちゃん、?」
さきほど樋口がしてくれたように優しくヘアピンを付ける。気品のある彼女のアイデンティティが、彼女を形作る一つがなくなってしまうのは、長年の同期としてあまりにも惜しかった。長い銀色の毛先に付いた白っぽい土を落として、よし、と息を吐く。
「できた」
ありがとぉ、といつもの調子で礼を言われ、心がくすぐったくなる。
高い塀に向き直った樋口は、ローファーに土を付けながらゆっくりと縁を歩いていった。キーホルダーでもいいし、誰かのアクセサリーでも、あるいは鍵なんかがあれば最高だな、と考えているのだろうということは安易に想像できる。実際月ノもそうであったのだ。探索よりも前に乗り越えられるか否かを試したのは…まぁ、脳筋と言われても否定はできない。
「…ないな」
「ないですね」
やはり部屋の中を探す方がいいのかもしれない。コテージの方が脱出のカギになるものが色々とありそうだ。
場所を移動するか否かを悩んでいると、樋口が息をのむ音が聞こえた。
何、と聞くまでもない。ががが…ががが…という不快な音が、建物の中から響いてきたからだ。
ふと、今朝北見から聞いた“ハンター”の話を思い出す。赤城ウェンは、大剣を引きずってゆっくりと徘徊しているらしい。赤く染まった目で標的を見つけると、常人とは思えないほどのスピードで走ってくるとのことだった。立伝の目撃情報はまだないため、彼女がどう襲ってくるのかはわからないが…彼女だけが普通の人間と同じスピードだとは考えづらいだろう。
洋館の暗闇から、特徴的な金色のリボン頭が顔を出した。
この距離では確実に見つかってしまう。隠れていても、ハンターは執念深く探し出して命を奪ってしまうだろう。
ならば、2人が取る選択肢は…。
「…行くで」
「…うん」
2人は、できるだけ音を立てないようにハンターから逃げ出した。穏やかな中庭に似つかわしくない荒い呼吸音が、ただ虚しく響いていた。
Q.どこへ行きますか?
森
コテージ












編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!