26 - 私たちだけの世界
紙の質感。
墨のにじみ。
そして、聞こえてくる筆先の音だけが、
この部屋の時を進めていた。
日記は今も続いている。
けれど、もう私の手元には
“あの頃の私”が書いたページは存在しない。
焼かれたわけではない。
ただ──“消えた”。
まるで最初から存在しなかったように。
無一郎が私の隣に腰を下ろす。
白い肌に、少しだけ寝ぐせのついた髪。
その瞳は変わらず透明で、
恐ろしいほどまっすぐに私を見つめていた。
私は静かにそう返す。
彼はくすりと笑って、私の髪を梳く。
あの頃、怯えたその仕草はもう怖くない。
私の中で“怖い”という感情は、
どこか遠くに置き去りにされたのだ。
──感情の輪郭は、薄れていく。
でも、不思議と、苦しくはなかった。
この部屋の温度はいつも穏やかで、
空気も澄んでいて、無一郎は、
私にだけ優しくて、私のことだけを見てくれる。
無一郎が囁く。
私は頷く。
それが“正しい”ことのように感じられるから。
窓の外に風が吹いている。
季節が変わったことを、音だけが告げている。
日記の最終ページを、私はそっと開いた。
筆を取る。
手が勝手に動き出す。
──『これは、私たちだけの世界』
それを書き終えたとき、
無一郎が微笑みながら言った。
私は彼の肩に寄りかかった。
言葉もなく、ただそこにいる。
扉は閉ざされたまま。
けれどもう、そのことに涙を
流す気持ちすら、どこかへ消えていた。
そして静かに、また新しい一ページが始まる。
──終わり、そして始まり。
この小さな部屋の中で。












編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。