第66話

第四章―26
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2024/07/29 09:00 更新
宵桜先生の話を聞き終わり、俺は何一つ言葉を発することができなかった。
宵桜先生が備え付けのテーブルを撫でる。
隅っこに名札シールが貼られているのが見えた。
『宵桜蘭 様』
宵桜先生はゆっくりと言葉を紡ぐ。
宵桜 要誠
今でも毎日考える。
もっと早く病院に連れて行けば良かったんじゃないか。
別の免疫抑制薬を試せば良かったんじゃないか、あるいは感染症の治療をもっと優先すれば良かったんじゃないか。
人工呼吸器を使わなければ良かったんじゃないか……
宵桜先生は深く息を吐いた。
宵桜 要誠
俺がもっと勉強していれば、せめて、少しは楽に死ねたんじゃないか。
宵桜先生は自分の左手で左目を覆う髪をかき上げる。
その拍子に、彼の指先に光るリングと前髪で隠れていた左目の上の切り傷が見えた。
思えば気にはなっていた。
宵桜先生普段からジャラジャラとリングをつけているが、左手の人差し指に通した一際光る、アメジストのはめ込まれたリングだけは毎日そこにあった。
前髪も左目の方はかかっている量が多く、見えずらそう、だなんて思っていた。
ずっと引っ掛かっていた疑問の答えは、俺の想像を超えた悲劇だった。
部屋の隅に立てかけられた写真立てに、俺は目を向ける。
部屋の主__宵桜蘭が笑っている。
その隣に立つ男性は、間違えようもない。
今よりも若い宵桜要誠が、面倒くさそうに、でもどこか柔らかい表情でピースを向けていた。
「さて」、と宵桜先生は俺に向き直った。
宵桜 要誠
俺がどうしてお前をここに連れてきたか、分かるか?
俺は首を横に振った。
この場所が宵桜先生にとって特別だというのは嫌というほど理解できる。
だが、なぜ俺に見せたのか。
宵桜 要誠
言っただろう。
講義してやる、ってな。
宵桜先生は窓の桟に腰掛けた。
宵桜 要誠
宵桜蘭という症例の正解がなんだったのかは、誰にも分からん。
そもそも、医学っつーのはそういうもんだ。
この検査をやっとけばオーケー、この薬を使えば間違いなし……そんな治療を存在しない。
俺たちは確率とリスクを計算して、期待値・・・が高いものを選んでいくしかねぇ。
宵桜先生の声は落ち着いていた。
だがなぜか、俺は自分が崖っぷちに立って今にも落ちるかのような恐怖を感じていた。
宵桜 要誠
翻って、お前はどうだった?
宵桜先生の三白眼が、俺を射抜く。
宵桜 要誠
随分と自信がありげだったじゃねぇか。
SLEの治療はステロイド、今すぐステロイドを開始すべき、か。
お前の方針通りに緑野にステロイド治療が行われていたら、今頃どうなっていただろうな。
不必要な治療はむしろ有害なことがある。
ステロイドは自己免疫疾患に対する切り札であると同時に、使い方を間違えれば毒になる。
骨粗鬆症、糖尿病、免疫抑制……いくつもの副作用が生じていたことだろう。
俺はあと少しで、栖智にそれを強いるところだった。
宵桜 要誠
お前、言ってただろう。
自己免疫疾患について、多少・・は理解したつもりだって。
宵桜先生は鼻を鳴らし、
宵桜 要誠
何様だ?
鋭く吐き捨てた。
宵桜 要誠
多少理解した程度で治療に口を出そうなんて傲慢もいいところだ。
中途半端な知識で間違った治療をすることほど有害な医療はない。
反論できなかった。
圧迫感で息が詰まる。
目を伏せ、必死に呼吸を繰り返した。
宵桜 要誠
お前も、自分の問題点を自覚できただろう。
思えば、宵桜先生は「なぜ緑野栖智の治療を行わないのか」という俺の疑問に、一度としてはっきりとは答えてくれなかった。
以前はあまりにもそっけない態度に業を煮やしもしたが、今になって考えてみると、宵桜先生はあえてそうしたのかもしれない。
俺が決定的な間違いを犯し、それを指摘する。
そうしてこそ、俺は自分の過ちを心底から実感できる。
俺は背筋が冷たくなった。
もし、そうだとしたら。
俺は徹頭徹尾、宵桜先生の掌の上だったことになる。
目の前の男が、途方もない怪物に見えた。
宵桜 要誠
そういや、まだ答えを聞いてねぇな。
思い出したように宵桜先生が尋ねる。
宵桜 要誠
もう一度聞こうか。
夏都、医者に一番必要なものはなんだと思う?
これまで何度も訊かれた質問。
最初は上っ面の答えを、そして次は返事に詰まった問い。
その答えが今、不思議と口をついて出た。
暇 夏都
……医者に一番必要なもの、は__
俺は唾を飲んだ。
暇 夏都
自分は患者を殺しうる__殺せてしまう、という自覚だと、思います。
そうだ。
自分の責任に対する認知。
他者の生命を左右してしまう立場にあることを、骨の髄から実感していること。
もう少しで俺は栖智に取り返しのつかないことをするところだった。
己の過ちと傲慢を、腹の底から痛感させる。
それが、宵桜先生の講義だった。
宵桜先生は目を細めた。
宵桜 要誠
__フン
鼻を鳴らし、面白くもなさそうに吐き捨てる。
宵桜 要誠
少しは医者らしくなったじゃねぇか。
指輪と宝石の意味書きたかったんですけど入り切りませんでした!
すみません💦
気になる人は調べてみてください!

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