それから、朝の通学路にすっかり変な“ルーティーン”ができてしまった。
白杖を突きながら、いつもの角を曲がる。時間もほとんど同じ。だから、もう分かってしまう。
次に来るのは、あの声だ。
「おはよう大夢くん!」
案の定、よく通る低音が朝の空気を突き抜ける。
「……理人さぁ、毎日飽きないの? あと声デカい」
ため息混じりに返すのも、もうセットみたいなものだ。
最初はただの偶然だと思っていたのに、気づけば毎朝いる。しかも当たり前みたいな顔で隣に並んでくる。
不思議なのは、それに対して完全に拒否しきれていない自分がいることだった。
隣に立つと、歩幅を合わせてくるのが分かる。ほんの少しゆっくりになる足取り。白杖のリズムにぶつからないように距離を保つ気配。
そういう細かいところが、妙にちゃんとしている。
気づけば、その位置が“安全”だと認識され始めていた。
「あ、寝癖ついてる。かわいい」
「かわいくないから! だいたい俺の方が年上なんだよ? 敬いなよ」
「いやでもこれに関してはマジ不可抗力……ぷりぷり怒ってるのもかわいぃ……」
低く噛み締めるみたいな声で言われて、言葉に詰まる。
「はぁ、もういい!」
顔が熱くなるのを自覚しながら、歩くスピードを上げる。
「え、待って大夢くん!? 今の褒め言葉よ……?!」
慌てて追いついてくる気配に、余計にペースが乱れる。
年上としての威厳とか、そういうものを守りたい気持ちはあるのに、なぜかこの男の前だと全部うまくいかない。軽くあしらっているつもりなのに、気づくと振り回されている。
そのくせ、完全に突き放すほどの理由も見つからない。
歩いている途中、理人の空気が急に変わることがある。
点字ブロックの上に人がいたり、物が置かれていたりすると、一瞬で声の温度が下がる。
「おい! そこ点字ブロックやぞ! 通れんやろうが!」
さっきまでの調子とは別人みたいな迫力で詰め寄るから、普通に怖い。
「理人、怖いからやめて!」
慌てて止めに入ると、少し間を置いてから「……すまん」と声が戻る。
極端すぎる。
ただ、そのあとでさりげなく足元の空き缶をどかしていたり、すれ違いざまにぶつかってきそうな人を一瞬で黙らせたりしているのを感じると、やっていること自体はちゃんと“守る側”なんだと分かる。
見えていないところを補うように、先回りして処理していく。その積み重ねのせいか、隣にいると、少しだけ歩きやすいと感じてしまう。
それが少し悔しい。
正門が近づいてくると、また別の音が混ざる。
「大夢くんじゃーん! おはよー! ……あ、りーくんもいる!」
弾けるような声。迅だ。
最初の頃は理人も少し警戒していたみたいだけど、迅の距離感のなさと妙な明るさに押し切られて、今では普通に会話している。
「え、めっちゃイケメンじゃん! 大夢くんのことよろしくね!」なんて言われて、あっさり懐柔されていたのを思い出すと、ちょっと笑える。
今では完全に、“大夢見守り隊”みたいな空気になっているのが意味不明だ。
「りーくん、今日も愛が重いねぇ。大夢くんも頑固だから、なかなかデレないでしょ?」
「おう、でもそこがいいんよ……この鉄壁の守りを崩すのが俺のミッションやからな」
「……本人を目の前にして、勝手に盛り上がらないでくれる?」
話題が完全に自分抜きで進んでいるのが納得いかない。
「にゃはは! ほら早く行こ! りーくん、じゃあね!」
迅に腕を引かれる。
「おう、大夢くん、行ってらっしゃい!!」
後ろから大きく手を振る気配と声。
そのまま校舎の方へ引っ張られていく。
少し進んで、ふと気づく。
さっきまで横にあった低い声が、もう聞こえない。それだけで、周囲の音が急にすっきりした気がする。
静かになった、はずなのに……なぜかほんの少しだけ物足りない。
理由を考える前に、迅がまた何か話しかけてきて、その感覚はすぐにかき消された。
──────
放課後、今日もいつものように駅へ向かって歩いていた。
この時間帯の道は朝よりも人が多いけど、その分だけ音や気配がはっきりしていて、逆に歩きやすいと感じることもある。何度も通っている道だから、どこに何があるかは大体分かっているし、白杖が拾う情報と合わせれば、大きく迷うこともない。
だから、気が緩んでいたのかもしれない。
突然ガチッ、と。白杖の先が、明らかにおかしなものに引っかかった。
「……っ、わ!」
バランスを崩しかけて、慌てて踏みとどまる。
手に伝わる感触が、いつもと違う。地面じゃない、硬くて冷たい何かに無理やり引っかけたような違和感。
そのまま手探りで周囲を探ると、指先に触れたのは金属のフレームと、細いタイヤの感触だった。
「……自転車? こんなとこに留めないでよ……」
ぼやけた視界の中でも、なんとなく形が重なって見える。点字ブロックの上に、無造作に置かれた自転車。
最悪だ、と思った次の瞬間。手元に嫌な軽さが残った。
視線を落とすまでもなく分かる。白杖が、途中で折れていた。
さっきの衝撃で、きれいに。
一気に現実感が変わる。
白杖がないと、地面の情報がほとんど入ってこない。段差も、障害物も、全部が不確定になる。同じ道のはずなのに、急に難易度が跳ね上がったみたいな感覚になる。
どうしよう、という言葉が遅れて浮かぶ。これがないとまともに歩けないのに。
立ち止まったまま、どう動くべきか考えあぐねていると。
「大夢くん!」
背後から、聞き慣れた声が飛んできた。
この時間には珍しい、でも間違えようのない低音。
「理人……?」
「この時間に会うとは、運命?──って、白杖! どうしたん、それ!」
一気に距離を詰めてくる気配。声の調子が、明らかにさっきまでと違う。
「あー、うん。自転車に引っ掛けて、折れちゃったみたいで」
自分ではわりと落ち着いて言ったつもりだったけど、理人の反応は真逆だった。
「大丈夫なん……? 怪我は!?」
「いや、大丈夫だから。タクシーとか拾って帰るかし、そんな心配しなくていいよ」
むしろこっちがなだめる側になる。
けど、理人の気配はまったく落ち着かない。
「……いや、俺がおんぶします!」
「……え?」
話が急に飛んだ。
「いやいや、おんぶとか……別に足は動くし、歩けるよ」
「でも白杖無いし……なんかあったら危ないって」
言っていることは分かる。でも、おんぶはさすがにハードルが高すぎる。目立つし、恥ずかしいし、そもそもそこまでの状態でもない。
でも、一人で歩くのが不安なのも事実だった。
さっきまで普通に歩けていた道が、急に頼りなく感じる。
少しだけ黙って、それから小さく息を吐く。
「じゃあ……隣、立って……」
自分でも驚くくらい、小さい声が出た。
「おんぶは嫌だから。理人が、白杖の代わりしてよ……」
言ったあとで、じわっと顔が熱くなる。
完全に頼る形になっているのが分かるから、余計に落ち着かない。
でも、背に腹は代えられない。
理人が少しだけ息を呑む気配があって、それから。
「……っっ~~~! はい!! 喜んで!!」
やたら気合いの入った返事が返ってきた。
隣に並んで、位置を確かめる。
それから、指先でそっと、理人のパーカーの袖を掴む。
ぎゅっと力を込めると、そこにちゃんと頼れるものがあるのが分かる。
「……これなら、歩けるから」
自分に言い聞かせるように呟く。
白杖の代わり、なんて言ったけど、実際は全然違う。それでも、隣に誰かがいるだけで、こんなに感覚が変わるのかと少し驚く。
「駅前のケーキ屋さんまで送って。兄ちゃんがいるから」
行き先を伝えると、理人はまたとびきり元気のいい返事をする。
歩き出して、すぐに気づく。
いつもよりやけに遅い。
というか、慎重すぎる。
「あ、ここ1センチくらいの段差! 左、ちょっと右寄り、はい今!」
「……理人、ちょっとうるさい。1センチくらいなら大丈夫だから」
「いや! 大夢くんに万が一のことがあったら俺、後悔してもしきれんから!」
「…….大げさ」
思わず小さくため息が出る。
けど、袖を掴んだ指は、そのまま離さなかった。
普段よりずっと遅いペースなのに、不思議と不安はなかった。
駅前のケーキ屋に着いたとき、まず最初に感じたのは、慣れた甘い香りだった。
バターと砂糖が混ざったような、少し重たくて、それでもどこか安心する匂いが、扉の前からでも分かる。袖から手を離し中に入ると、「カランカラン」と軽いベルの音が鳴って、外の空気と切り替わるみたいに店内の空気に包まれる。
ここは、青と黄色を基調にした店内で、色のコントラストがはっきりしているから、ぼやけた視界でも位置関係がなんとなく掴みやすい。カウンターの位置も、ショーウィンドウの並びも、何度も来ているうちに身体が覚えている。
「いらっしゃ〜い! ……って、大夢? 珍しいね、こんな時間に」
すぐに聞こえてくる、聞き慣れた声。
ショーウィンドウを整えていた手を止めて、柾兄がこっちを見ている気配がする。
「あー、うん。実は途中で白杖が折れちゃって……」
「え!? 大丈夫!? 怪我してない? どうやってここまで来たの?」
矢継ぎ早に心配の言葉が飛んでくる。
「えっとね……」
説明しようとして、自然と後ろに手を伸ばす。さっきまで、袖を掴んでいた、その場所に。
しかしその手は、スカッと空を切る。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。そこにあるはずの体温も、気配も、全部なくなっている。
「あれ?」
思わず小さく声が漏れる。
ついさっきまで、すぐ後ろにいたはずなのに……。
もう一度確かめるように手を動かしても、やっぱり何も掴めない。
仕方なく、そのままくるりと向きを変えて、扉の方へ戻る。位置を探るように手探りでドアを開けると、さっきより少しだけ外の音が入り込んできた。
ぼんやりとした視界の中、入り口の脇あたりに、見覚えのある大きな影がある。
壁の方を向いて、なぜかじっとしている。
どう見ても、不審者っぽい。
「何してんの? 入ってきなよ」
声をかけると、その影がわずかに揺れる。
「いや、……いきなりお義兄さんに会うのは……心の準備が……」
何を言っているんだろう。というか、なんでそんなに緊張しているのか分からない。
「え? 何言ってんの。ほら行くよ」
深く考えるのも面倒になって、そのまま腕を掴む。
一瞬びくっとした気配が伝わるけど、そのまま引っ張って店の中へ戻る。さっきまで普通に隣にいたのに、なぜか急に扱いづらくなっているのが納得いかない。
「柾兄、ここまで付き添ってもらった理人。」
紹介すると、柾兄の声がぱっと明るくなる。
「そうだったんだ! 助かったよ〜、ありがとね。お礼にケーキ持って帰って!」
「いえ、当然のことをしたまでです。俺、池崎理人と申します!!よろしくお願いします!!!」
さっきまで外で壁に向かっていたのと同一人物とは思えないくらい、急に気合の入った声が店内に響く。
声量も姿勢も、全部が真剣すぎる。
「……あはは! そんなにかしこまらなくてもいいよ〜」
柾兄が楽しそうに笑う。
「あ、もしかして大夢がいつも言ってるヤンキーの……」
「柾兄!! 余計なこと言わなくていいから!!」
反射的に止める。変な情報を追加しなくていい。
「えっ、大夢くん、俺の話してくれてたん……!?」
横から、明らかにテンションの上がった声が飛んでくる。声の感じだけで、顔がキラキラしているのが分かるのが余計に腹立つ。
「……いちいちうるさい! ほら、柾兄、早く理人にケーキ包んであげて!!」
強引に話を切り上げる。これ以上広がると面倒な方向に行くのが目に見えている。
その後、理人は宝物みたいにケーキの箱を抱えて帰っていった。箱を汚さないように妙に慎重に持っている気配が最後まで伝わってきて、なんとなく笑いそうになるのを堪える。
店の扉が閉まって、さっきまでの騒がしさがふっと抜ける。
「ヤンキーとか言ってたからどんな人かと思ったけど、凄いいい子そうじゃん」
柾兄がぽつりと言う。
「まあ、いい人だけど……うん。」
曖昧に返す。否定はできないし、かといって素直に肯定するのもなんとなく引っかかる。
ふと、さっきの感触が蘇る。
袖を掴んで歩いたときの、あの距離の近さと、一定のリズムで伝わってきた体温みたいなもの。白杖の代わりなんて言ったけど、あれはそれ以上に妙な安心感があった。
そのときの自分の鼓動が、思い出した途端に少しだけ早くなる。
「……なにそれ」
自分でもよく分からない感覚に、思わず小さく呟く。
それを誤魔化すみたいに、顔の熱を感じながら、柾兄の仕事が終わるのを待っていた。
【一応見ておいた方がいいやつ】
大夢→ 全体がぼやける低視力型の弱視。
・色はなんとなく分かる(青・赤・黄などの大まかな識別)
・光や影、動きは捉えられるけど細部(顔・文字・表情・距離感)はほぼ判別できない
迅→ 視野の一部が抜け落ちているタイプの弱視
・左目:ところどころ視野が抜け落ちている
・右目:ほぼ見えていない












編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。