「ハンビニヒョン、おはようございます!」
「おはよう、ギュビナ」
それから、ギュビンは毎日部屋を訪れた。
午前中は礼儀作法についての授業をして、午後には
基礎的な素養を教えてくれたり、文字を教わって
こなかった俺に読み書きの練習を施してくれたり。
「そういえばヒョン、箸の持ち方がすごく上手に
なりましたね。」
今日の献立は、米に汁椀、茹でた菜葉と鮭の塩焼き。
こうやって朝餉を一緒に食べるのも、いつのまにか
習慣になった。
「……ありがとう。
ギュビニが教えるのが上手いからだよ」
「えへへ、ありがとうございます!」
聡明で、ときには明るく無邪気に振る舞うギュビン
の調子に、見事飲み込まれた俺。
最初は距離を空けていたのにすっかり敬語が抜けて、
いつの間にか、ギュビンは俺を「ハンビニヒョン」と
呼ぶようになっていた。
「ヒョン、今日の午後は予定ありますか?」
「特にはないけど、どうして?」
「厨房に、おやつを取りに行こうかなって」
ギュビンがにこりと笑う。
「厨房に?」
「はい。すごく美味しい点心があるんです。
ヒョンにも食べてもらいたくて」
地図で見た、あの場所。
紙面の情報と頭の中の情報を一致させるために、
ここ最近は毎日散歩をするようにしていた。
庭園や池のあたりを散策したことはあれど、建物の
中には未だ入ったことがない。
「……いいよ、行こうか」
「やった!じゃあ、食後に行きましょう!」
建物の確認程度なら、しておいて損はないだろう。
ギュビンにはやくはやく、と急かされるままに、
出来立ての朝食を腹に収めていった。
慌ただしい食事を終え、ギュビンに連れられて
厨房へと向かう。
廊下を曲がると、温かい空気と食べ物の匂いが
漂ってきて、少しわくわくした。
「着きましたよ」
ギュビンが扉を開けると、広い空間が目に飛び込んで
きた。
明るい照明。
大きなかまどがいくつも並び、調理台には様々な
道具が並んでいる。
働く料理番たちの声も、活気に満ちていた。
「あ、ギュビンさん!」
料理番の一人が、気さくに声をかけてくる。
「今日は何を?」
「巧克力、ありますか?」
「ありますよ!少々お待ちを。」
「……ねぇギュビナ、ちょこれーと、って?」
「 巧克力。あまーい糖菓です。
最近西方から入ってきた高級品なんですよ!
ヒョン、甘いもの好きでしたよね?
きっと気に入ると思って。」
料理人が奥に引っ込んでいる間、ギュビンは厨房内の
説明をはじめた。
こういう所、本当に無駄がなくて尊敬してしまう。
「ここの厨房は、昼も夜も灯りが絶えないんです。
皆さんの夕餉を作った後も、従者が自分用の夜食を
用意したりするので。」
ふと、ギュビンの視線が奥の方に留まった。
「あ、包丁。
……ちゃんと片付けないと危ないのに」
使われていない調理台の端に、何本かの包丁が
無造作に置かれている。
「あれ、本当は戸棚にしまうんですけど、
忙しいとつい出しっぱなしにしちゃうんですって」
ギュビンは、困ったように首を傾げた。
「まあ、厨房の人たちも慣れてますから。
でも、危ないですよね」
「……そうだね」
包丁、か。
逃走時の護身用に、ひとつくらい手に入れておいても
いいかもしれないが……
小さな武器を一本持ったところで、俺の力では
屈強な追手に勝てるまい。
寧ろ邪魔になるだろうし、持たない方がいいだろう。
「はい、お待ち遠さま」
料理人が、黒い塊の乗った小さな皿を差し出した。
これが、 巧克力。
つやつやと光を反射する四角い欠片を、恐る恐る
口に運ぶ。
すると、初めは固体だったそれが、少しずつ舌の上で
溶けていき、香ばしい風味と共に濃厚な甘みが
広がった。
「……美味しい」
「でしょう?僕のお気に入りなんです」
ギュビンがふふん、と満足そうに笑う。
その笑顔を見ていると、少しだけ心が緩んだ。
______こんな日常も、悪くないかもしれない。
そう思ってしまった自分に気づいて、息を呑んだ。
ころり、と未知の味を舌で転がす。
甘さの奥に、ほんのりと苦みが香った。













編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!