中学2年生の大橋詩音には、幼馴染みがいる。
その子の名前は、緒川花恋。
花恋は生まれつき聴覚障害を患っており、補聴器をつけてもほとんど音が聞こえない。
花恋と話すために小さい頃から手話を習っていた詩音は、花恋に淡い恋心を抱いていた。
あるとき詩音は、ふと思う。
音の聞こえない世界は、どんなものだろうかと。
詩音は、音楽が好きだった。
中学校の部活には軽音楽部に入っており、ギターを担当している。
それくらい、音楽が好きだった。
音楽は、詩音の世界の一部だった。
だが、詩音が恋をしている花恋は、詩音が大好きな音楽を聞くことができない。
それでも花恋は、詩音の歌をすごいと言う。
綺麗だという、美しいという。
詩音は、それが嫌だった。
聞こえないくせに、とどうしても思ってしまう。
それが、そんな自分が、詩音は嫌だった。
ある日、詩音は花恋に昼休みに呼び出され、あることを相談される。
それは、詩音にとっては信じられないことで。
詩音は思わず、見せたくないからと隠し続けてきた本当の自分をさらけ出してしまう───。
ザワザワと騒がしい昼休み。
本を読んでいた大橋詩音は、後ろの席から伸びてきた手に肩をつつかれ、ビクリと肩を震わせた。
振り返ると、申し訳なさそうに両手を合わせて微笑む幼馴染みの姿がそこにあった。
緒川花恋。
彼女は詩音の保育園児時代からの幼馴染みであり、詩音が片思いをしている相手でもある。
花恋はトントンと机に開いていたノートを叩き、困ったように微笑んだ。
『ここ、よくわからなかったの。教えてくれる?』
素早く手を動かして、花恋は無言で詩音に伝える。
傍から見れば、それはよく分からないジェスチャーのようだ。
しかし、それはちゃんと言葉として詩音に伝わった。
『いいよ。どこがわからなかったんだ?』
詩音は同じ様なジェスチャーで返し、自分のシャーペンを片手にノートを覗き込む。
花恋もまた自分のシャーペンを持って、トントンッとある箇所を指した。
『先生に質問しようと思っていたんだけど、あの先生、職員室に帰るの早くて』
また、花恋が手を動かす。
それは、普通の人には分からない動きだ。
だけども、これもまたしっかりと詩音に伝わった。
花恋は、聴覚障害者だった。
長い髪に隠れてはいるが、彼女の両耳には補聴器がある。
だが、補聴器をしていても、花恋はほとんどの音を拾うことができない。
傍から見ればよくわからないジェスチャーは手話で、花恋はそれを使って詩音と会話をする。
そして詩音もまた、それを使って花恋と会話するのだった。
『ああ、ここな。俺も説明されるまでよく分からなかったんだ。難しいよな、応用問題』
詩音は、花恋と保育園児時代から一緒にいる。
そして、早い段階でその恋心を自覚したため、花恋と会話を試みるために手話を習得したのだった。
花恋には、障害者がよく行くような学校の道も用意されていたが、花恋は知識欲に貪欲だった。
普通の人と同じ学校に行ってたくさん学びたいから、と花恋は詩音やその他の小学生の頃の同級生たちと一緒に中学校に上がった。
幸い、この中学校には手話ができる先生がいて、花恋に付きっきりで先生の言葉を花恋に伝えてくれる。
だけど、その翻訳も間に合わない時があるのだった。
そういう時は、花恋は休み時間などに詩音に質問する。
だから、花恋と詩音の席は、どう頑張っても離されないのだった。
詩音が、ノートに文字を書いたり手話を交えたりして説明すると、花恋は真剣な顔でノートに言葉を書き込む。
詩音の文字は明朝体のように流麗で、花恋の文字はやや丸みを帯びている。
2人は全く声は出さないが、2人の文字で埋め尽くされるノートは、賑やかで、見ていて楽しかった。
賑やかな昼休みの教室の中、その2人の空間だけが、とても静かだった。
* * *
「大橋ー!部活行くぞー!」
放課後。
詩音と同じ軽音楽部の渡邉遥輝が詩音に声をかけた。
花恋と手話で話していた遥輝は、2人の時間を邪魔されたことをやや不機嫌に思う。
だが、部活の時間は変更にはならないので、花恋に断りを入れて部活に行こうとした。
だが、花恋は慌てて詩音の服をちょんと摘む。
『どうした?』
詩音が尋ねると、花恋はやや顔を赤くして手話で『詩音部活してるところ見たい』と応えた。
ポカンとしていると、なかなか動かない詩音に痺れを切らしたらしい遥輝が寄ってくる。
そして、詩音の後ろから顔を出した。
「緒川さん、何て言ってんの?」
「俺らの部活見たいんだとよ」
詩音が答えると、遥輝が目をキラリと光らせた。
そして、花恋に向かってゆっくりと口を大きく動かす。
「い い よ」
遥輝の答えが伝わったらしく、花恋はぱっと花が咲くように笑った。
詩音は慌てて遥輝の口を塞いたが、伝わってしまったものはもう遅い。
ニコニコと笑って嬉しそうにしている花恋を目の前にして『ダメだ』なんて言えなかった。
だが、花恋がこうして詩音の部活姿を見たいというのは初めてのことではない。
先輩も「花恋ちゃんみたいに可愛い子が来てくれたらやる気出る」と毎回言っている。
それに、花恋は何より、詩音が音楽に触れているのを見ることが好きだった。
詩音は昔から、音楽が好きで。
そのことを、花恋は知っていた。
花恋本人が音楽を聴くことは、どうやってもできない。
だが、詩音がギターに触れて、楽しそうにそれを掻き鳴らしているのを見るのは、好きだった。
音がどういうものかわからない花恋にとって、音楽というものは遠い存在だった。
だが、詩音がそれを奏でているのを見て、音楽は遠いようでいてとても近いところにあるものだということを、花恋は知った。
だから、聞こえなくても、視覚で音楽を楽しんでいるのだった。
「いいじゃーん。俺も緒川さん来てくれた方が嬉しいし。何てったって、緒川さん可愛いかr((」
「うるせぇ」
詩音は遥輝の頭に拳骨を落とし、じゃあ行くか、と手話で花恋に伝える。
花恋は、嬉しそうに笑って頷いた。
遥輝は、殴られた頭を擦りながらへらりと笑う。
3人で廊下に出ると、数人の生徒は興味深げに花恋の耳の補聴器を見る。
その視線から守るように、詩音はいつも周りの人に鋭い視線を送っているのだった。
花恋はそれに気がついていて、それをやめて欲しいということも伝えている。
だが、詩音にとって花恋は大切な『トモダチ』で『初恋の人』だ。
そんな大切な人を、奇妙なものを見るような目で見られたくなかった。
だから、詩音は未だに周りの人を睨んで牽制することをやめられなかった。
花恋はもうそれに呆れているのか、困ったように笑うだけで注意はしない。
遥輝だけが、おアツい2人を見て、2人の斜め後ろでニヤニヤしているのだった。
部室は、4回の第2音楽室。
この学校でいちばん広い第1音楽室はいつも吹奏楽部が使っているから、第1音楽室の半分くらいの大きさの第2音楽室を軽音楽部が使っているのだ。
軽音楽部の部員は6名で、最低部員数ギリギリ。
そして、3ヶ月後に3年生が2人引退してしまうので、4人になってしまうのだった。
毎年1年生が2〜3人入ってくれるのだが、来年はどうなるか、、、
もしかしたら、軽音楽部はなくなってしまうかもしれない。
(そうなったら、俺はどうすれば良いんだろうな)
詩音は、吹奏楽部に入るつもりはない。
詩音ができるのはギターとピアノだけであって、金管楽器や打楽器ではない。
そうなると……帰宅部しか選択肢は残されていない。
帰宅部になれば、花恋と家が近いから花恋と一緒に帰ることができるかもしれないが、詩音個人としてはあと1年なのだし、やめたくはない。
頑張って勧誘活動をするしかない。
花恋を入れたいところだが、花恋は音が聞こえないから楽器を奏でることは難しい。
軽音楽部の部員の少なさは、軽音楽部の部員全員の大きな悩みだった。
ギターは、本などを買って好きなように独学で学べるかもしれないし、習い事にもできるかもしれない。
だけど、詩音にとってとても大切で大好きなギターを『嫌なもの』にしたくなかった。
詩音は基本的に習い事は好きじゃないため、そういうものにしてしまえば、ギターが嫌になってしまうかもしれない。
それは、絶対に避けたかった。
その点で言うと、軽音楽部はみんな緩くて、たまに学校祭とかで演奏するくらいで活動もほとんどなかった。
好きなようにそれぞれの楽器を奏でて、たまにみんなで合奏して。
目立ちたがり屋の遥輝が、たまにボーカルになって流行りの曲とかを演奏して。
たまに詩音に弾き語りの無茶振りが来たり。
とても、楽しいのだ。
「ほら、緒川さん」
遥輝の声がして、詩音はハッとする。
いろいろ考え込んでいたら、部室に着いていたようだった。
遥輝は防音がなされている故に重たい扉を開けて、花恋をまず先に通す。
その後に自分も扉の隙間に身体を滑り込ませると、扉から手を離した。
危なく扉に挟まりそうになって、詩音は慌てて扉を支える。
「お前……ッ」
「ぎゃはは、男は自分で開けろーw」
カチンと来たが、別に問題はなかったので特に何も言わなかった。
花恋が心配そうに詩音の顔を覗き込む。
そして、『大丈夫?』と手話で尋ねてきた。
『大丈夫だよ』と返すと、花恋は安心したように笑った。
そして、遥輝の方に向き直ると、ムッとした顔を見せてその額をデコピンした。
「あ痛ッ!?」
花恋は頬をぷくーっと膨らませて、必死に『怒ってますよアピール』をする。
それが可愛らしくて、詩音は思わず笑った。
花恋もそれにつられて笑う。
遥輝は、ジンジンと痛む額を押さえながら、それでも思わず吹き出して笑った。
* * *
音楽室に、優しいギターの音色が日々に渡る。
それと同時に、やや低くて優しい歌声も響いた。
椅子に座って弾き語りをしているのは、もちろん詩音だった。
今日もまた先輩の無茶ぶりが炸裂して、その犠牲に詩音はなったのだった。
先輩は、無茶振りをする相手を気まぐれに選ぶ。
せめて順番にしてくれたら諸々の準備もできて嬉しいのだが、先輩は「それじゃあ面白くないから」と取り合わない。
花恋もいることだしカッコイイところを見せてあげな、と先輩は囁くが、そもそも聞こえないのでぁり意味はない。
だが、詩音は最近、この無茶振りを面白く感じるようになってきていた。
詩音は、作曲に目覚めたからだ。
ギターをテキトーに掻き鳴らしていた時のこと。
なんとなく良い感じの音色が生まれ、詩音はそのままの勢いでギターだけで成っている曲を作った。
それをパソコンに取り込み、ピアノの音楽を入れ、歌詞を作って歌を歌って……なんていう工程が、楽しかったのだ。
それから詩音は密かに作詞作曲をするようになり、それをこの場でよくお披露目していたのだった。
「〜〜〜♪」
優しい恋の歌を歌い終えると、ギターの余韻が音楽室にかすかに響いた。
一瞬の静寂の後、パチパチと1人分の拍手が聞こえてきた。
それに続いて、みんながパチパチと拍手をし、大きな喝采が巻き起こった。
喝采が起きるような曲ではないが、あまりの音の並びの美しさに先輩が涙を流している。
「凄い。良い曲だね。なんて曲名?」
詩音は、これが自分で作った歌だということをみんなに言ってはいない。
だから詩音は、何だったかな、と曖昧に誤魔化した。
変に検索されて、これが公開されていない音楽だったとバレたら大変なことになるから。
チラリと詩音は花恋の様子を見る。
花恋はみんなと合わせてパチパチと拍手をしているが、その顔は複雑そうだった。
当たり前だ。
聞こえないのだから。
詩音は、胸の中に渦巻いた黒い感情を押し込め、優しく微笑みかけてから自分のギターに目を落とした。
(この歌が、君に届けば良いのに)
そう思わずには、いられなかった。
* * *
『部活の時の弾き語り、凄かったね』
部活からの帰り道。
遥輝と別れて、2人きりになった少しあとに、花恋がそう伝えてきた。
どういうことかわからなくて、詩音は上手くてを動かせなかった。
花恋はあの歌を聞くことができないはずなのに、すごいかすごくないかわかるはずがないと思ってしまって。
花恋は、補足をするように更に手を動かす。
『みんな、強く沢山拍手してた。私はそれを聞くことはできないけれど、すごいのは伝わったよ』
花恋はそう言って優しく笑った。
その目が少しだけ潤んでいたのを、詩音は見逃さなかった。
ああやって、少人数に弾き語りを披露するのは好きだけれど、詩音は、花恋にだけは、あまり弾き語りを披露したがらない。
それは、花恋が気を遣うとわかっているからだった。
音の聞こえない花恋が歌に感想なんて言えるわけないのに、頑張って絞り出してくれる。
その感想が、詩音は嫌だった。
花恋が、無理をしているのが伝わってくるようで。
手の些細な動きから、この言葉を伝えるのを躊躇っているのが伝わってくるようで。
『無理してそんなこと言わなくて良いよ』
『無理なんてしてないよ!』
でもわからないでしょ、と詩音はあえて口に出す。
手を動かさなかったのは、花恋に悟られたくなかったから。
自分の心の中の真っ黒な部分を、花恋に知られたくなかったからだった。
自分の心の中にある淡い恋心を、知られたくなかったからだった。
花恋は、簡単な言葉ならば唇と舌の動きで何を言っているのかがわかる。
だが、詩音の今の口の動きはあまりにも小さすぎて、よく読めなかったらしい。
『ごめん、何て言ったの?』
花恋はきょとんとしてそんなことを尋ねた。
それが逆に、詩音の心の中をエグることになるなんて知りもせずに。
詩音は苦く笑って『何でもない』と応える。
花恋は更に何か伝えようとしたが、それよりも先に詩音が手を動かした。
『じゃあ、家見えたから。また明日』
『……うん、また明日』
若干の間があってから、花恋はそう応える。
それを見てから、詩音は自分の家に駆け込むようにして姿を消した。
花恋もまたすぐ近くにある自分の家に入って、靴を脱ぎ、リビングに向かう。
「あら、おかえり」
『ただいま』
食器洗いをしていたお母さんの唇の動きを読んで、花恋も手話で返す。
微かに床が揺れて、花恋は振り返った。
すると、花恋の5歳下の妹の水恋がパタパタと駆けてきていた。
『ただいま、水恋』
「おかえり、お姉ちゃん!」
水恋には障害はなく、そしてあまり手話もできない。
そのため、花恋が水恋と話をするためには目線を合わせなくちゃいけない。
だけれど、花恋はそれを面倒だとは思っていない。
それよりも、頑張って手話を覚えてくれようとしている愛しい妹と素早く会話ができないことを悔やんでいた。
だがそんなことを母の前で言えば、母はきっと、花恋が障害者であることは自分のせいだ、と自責するだろう。
だから、花恋はそんなことを表には出さず、ただただ可愛い我が妹を抱きしめた。
「『今日は帰りが遅かったわね。また、詩音くんの部活を見てきたのかしら?』」
母が、水恋を仲間はずれにしないように言葉を口に出しながら、手話で花恋に尋ねる。
母は花恋と会話をするために、数年で手話を完璧にマスターしてしまったのだ。
少なくとも、手話通訳士になろうかしら、と冗談で言った母の言葉を花恋が本気にしてしまうくらいには、手話が上手い。
『うん、詩音の部活見てきた。弾き語りしてたよ』
「『あら、いいわね。カッコよかった?』」
『うん!』
詩音は知らないが、花恋は密かに詩音に恋情を抱いていたのだった。
それを今まであまり表に出さないようにして生きてきたものだから、恐らく誰にも気が付かれていない。
しかし、花恋は家族大好きっ子であるため、両親と水恋にはそのことを打ち明けている。
両親は可愛い娘の恋を全力で応援しており、更に詩音とは昔から知った仲であるため、結婚式のことも考えているくらいだ。
花恋は、母の質問に元気よく頷いてから、ふと思った。
あの時の詩音のあのぎこちなさは、何だったのだろうかと。
よもや、自分に弾き語りをしているところを見せたくなかったのだろうかと。
そもそも、部活を見に来て欲しくなかったのかもしれない、と。
優しい詩音のことだ、そう考えているけれど言い出せなくて……なんて可能性は十分にあった。
それに気がついた花恋の顔は真っ青になり、突然真っ青になった花恋を、水恋と母は驚いたように見た。
「だ い じょ う ぶ ?」
水恋がゆっくり口を動かして見せると、花恋は慌てて微笑んで笑った。
そして、手話で『大丈夫。ちょっと部屋で休むね』と伝えて水恋から離れた。
母もまた心配そうな顔をしていたが、特に何を聞くでもなく、娘を見送った。
* * *
(嫌われたとは考えたくはないけれど、嫌われていたらどうしようと考えてしまう)
花恋は、自室に戻ってからベッドの上で体育座りをして自分の身体を抱きしめていた。
あの、詩音のぎこちない手の動きが思い出される度、花恋はとてつもない不安に襲われる。
ずっと秘めてきた恋心。
それが、チクチクと痛んで、花恋を不安にさせていた。
花恋は、あることを遥輝から聞いたことがある。
詩音がいつも歌っているのは、恋の歌なんだということを。
ある人がある人に恋をして、それが実るか実らないかはその曲によるけれど。
(詩音は、恋をしている……?)
まさか、と思った。
あの、女子には到底興味のなさそうな詩音が、恋をしているだなんて。
だが、そう考えると全ての辻褄が合うような気がした。
花恋が弾き語りを聞くのを詩音が嫌がる理由、弾き語を聞かれた後にぎこちなかった理由。
それぞれ、花恋とかなり仲が良いことを詩音の好きな人に誤解させまいとするためだったら?
そう考えると、花恋の心が締め付けられたように痛んだ。
苦しくて、どうしたら良いかわからなくて。
花恋は、スマホを手に取っていた。
メッセージ型の通話を、花恋は親友にかける。
[はいはーい?もしもし?]
すぐにそんな文字が現れ、花恋の脳裏に明るく笑って手を振ってくれる親友の神田愛梨の姿が浮かんだ。
愛梨は、花恋が支援小学校に通っていた時の同級生であり、親友だ。
今でもとても仲が良く、たまに一緒に遊んでいる。
遊ぶと言っても、お互いの家に行って手話でお喋りするだけだけれど。
[もしもし、愛梨?今大丈夫?]
[大丈夫だよー!逆に、勉強サボる口実できてラッキー!って感じ。通話ありがとねー!]
エクスクラメーションマークをたくさん使ったその文字は、とても愛梨らしい。
勉強はちゃんとしないとダメだよ、という花恋の窘めに、愛梨は[はぁい]とやや落ち込んで応えた。
だけど、すぐに元気を取り戻して、愛梨は突然通話をかけてきた花恋に何があったのか聞く。
家族の他に愛梨にも好きな人がいることを言っていた花恋は、好きな人のことについて、と返信する。
すると、愛梨は[恋バナ!?]とやや興奮したような文字を送ってきた。
[恋バナっていうか……、相談っていうか]
[ほうほう]
それから花恋は、今日あったことについて話した。
好きな人……仮にSさんだとして、Sさんは軽音部に入ってて、音楽が好きなこと。
Sさんが好きな音楽を奏でている姿を見るのが好きな花恋は、今日、部活見学を申し出たこと。
Sさんの友達で花恋のクラスメイトでもあるHさんがそれを許可してくれて、見学に行ったこと。
そこで、Sさんが弾き語りを披露してくれたこと。
だけど、花恋は聴覚障害で耳が聞こえないから、その歌ももちろん聴くことができなかったこと。
だけど、みんなたくさん拍手して、みんなが笑っていたり感動して泣いたりしているのを見て、花恋は単純にすごいと思ってそれをSさんに言ったこと。
それは、Sさんの音楽には人の心を揺り動かすことができるような凄い力があるんだな、と心の底から思ったからだったけれど、それがあまり嬉しくなかったらしいことなど。
詳細に話していたらやっぱり辛くなって、花恋は途中からポロポロと涙を零しながら文字をひたすら打ち続けていた。
愛梨はその間、[うん][そっか][酷っ!?]などといい感じの相槌をしながら、話を聞いていた。
[どうしよう、愛梨。私、Sさんに嫌われちゃったかもしれない……!]
花恋が送ると、愛梨はしばらく黙っていた。
何度か何かを打とうとしてやめたらしい言葉がチラチラと見える。
だが、結局愛梨が選んだ言葉は[私の座右の銘を教えてあげる]だった。
[座右の銘?]
[そう、私の座右の銘。なんだかんだ伝えてなかった気がして。いい機会だし、教えるよ]
愛梨ほそう打って少ししてから、ゆっくりと自分の座右の銘を打つ。
それは、当たって砕けろ、だった。
愛梨もまた、支援中学校に入ってすぐくらいに、ある下半身が不自由な男の子に一目惚れをしたらしい。
だけどその男の子は、愛梨がすぐに好きになるだけあって、校内でも人気者になった。
向こうは、愛梨のことをクラスメイトとしか思っていないだろうし、恋が叶うわけもないと思っていた。
だけど、当たって砕けろ、と言う精神の元、思い切って告白してみたら、なんと成功。
移動教室の時にものが多くて困っているのを、愛梨が手伝ってあげたことを覚えていてくれたらしく、なんと両思いだったことが発覚。
それ以来、当たって砕けろ、というのを愛梨は座右の銘にしているのだった。
[それ、砕けてないじゃんw]
[そうなんだけど!でも、そういう精神でいったら結構いけるかもよ?って話]
[なるほどね]
(当たって砕けろ、かぁ)
砕けたくはないけれど、でも、ある意味これは正しいと思った。
言葉は、黙っていても伝わるようなものじゃない。
口に出したり、伝える努力をして始めて、その気持ちや思いが伝わるのだ。
[わかった、ありがとう。聞いてみるよ]
[うん、頑張れ!]
それから少し愛梨と話して、その日は通話を辞めた。
それから家族で食事をして、お風呂に入って、勉強してから寝たが、花恋はずっとどこか上の空だった。
* * *
翌日の昼休み。
詩音はまたひとりで本を読んでいると、後ろの花恋から肩を叩かれてビクリと肩を震わせた。
本を閉じて振り返ると、花恋が『ごめんね、驚かせちゃって』と手話をする。
詩音はそれに『大丈夫』と答え、本をしまって完全に後ろを向いた。
『何かあった?』
『ちょっとね。着いてきてくれる?』
詩音は、突然どうしたのだろう、なんて思いながら、席を立った花恋の後について行く。
花恋はやや早足でどんどん進み、詩音は小走りでそれについて行く。
花恋の表情は詩音からはよく見えなかったが、すれ違う同級生たちの反応から伺うに険しい顔をしているのだろう、と詩音は思った。
何かしたか、と昨日のことを振り返り、あの若干キツい態度のせいか、と頭を抱えたくなった。
ただ、廊下のど真ん中で頭を抱えるわけは行かない。
それに、その件じゃないかもしれない。
そんなことはほとんどありえないと思いながらも、一縷の希望を胸に花恋の後について行く詩音。
花恋が足を止めたのは、2階の階段の下にある少しの暗いスペースに着いた時だった。
『どうしかしたのか?』
動揺からか、手が若干震えた。
花恋はその震えを見逃しはしなかったが、あえてそれを無視して手話で自分が思っていることについて伝えた。
『詩音は……、好きな人、いるの?』
詩音の口から「っは?」と、小さく声が漏れた。
そんなことを聞かれるなんて、微塵も思っていなかったから。
困惑して手を動かせない。
それを見て、花恋は『ごめんね』の手話をしてから、そう思った理由を話し始めた。
遥輝から、詩音が弾き語りで歌う歌はいつも恋の歌だということ。
昨日の花恋の褒め言葉にややキツい態度をとった理由。
いつも花恋が軽音部の部活動を見たいと言った時に、あんまり良い反応をしないこと。
それは、花恋と一緒にいるところを見られたら、好きな人に勘違いさせてしまうかもしれない、と危惧してのことなんじゃないかと考えたこと。
『もし、好きな人がいるなら、ごめん』
『私、ずっと迷惑だったよね』
『この学校で気安く喋れるのが詩音くんだけだったからって、良くないよね』
『ずっと縛って、ごめんね』
花恋が動かす手は、酷く震えていた。
だけど、止めることはなかった。
花恋が今持ち合わせている会話手段は、手話しかないから。
詩音は、手をだらんと垂らして、何もできずにいた。
花恋は詩音が無反応なことを見て、泣きそうに顔を歪めた。
でも、泣くのを我慢してにっこり笑って見せた。
『ごめんね、これからはあんまり話さないようにするから。その人と、上手くいくといいね』
花恋はそう伝えて、バッと顔を覆って走り出した。
詩音はそこでやっと我に返って、自分の隣を走り抜けて行こうとする花恋の手首を掴んで引き寄せた。
花恋が、びっくりしたような顔をする。
だが、詩音はそれを構わずに花恋を抱き寄せた。
このままじゃ言葉を伝えられない。
だけど、花恋の涙を見ておいて、こうせずにはいられなかった。
少ししてから花恋から身体を離し、詩音は手を動かした。
『好きな人は、いる』
『けど、諦めてた。ずっと』
『ずっと高嶺の花みたいな存在で、初恋をずっと拗らせてきて、でも諦めきれなくて』
『同じ中学に来てくれるって聞いた時は、すっごく嬉しくて、飛び上がりそうだった』
花恋は、詩音の手を凝視する。
そのもともと大きな目が、更に大きくなった。
そして、みるみる涙が浮かび上がってくる。
花恋の両手が、その可愛らしい顔を隠した。
詩音は、そのままじゃあ俺の手の動きが見えないだろ、とその手をそっと離させる。
『何度もこの想いを伝えようと思ったけど、ずっと、勇気出なくてさ』
『どうしたら良いかわからなくて、ギター弾いてたら良い音見つけて』
『その勢いのまま作曲してたら、その時悩んでた恋愛についての曲ばっかできて』
『誰にも歌わずに秘めることが俺にはできなくて、ああやって披露することしかできなくて』
『ごめん』
花恋の大きな目から、堪えきれなかった涙が溢れた。
詩音もまた、泣きそうだった。
大好きな、大切な人を泣かせておいて、自分は何をのうのうと逃れられると思っていたのだろう。
どうしてあんな態度を取ってしまったのだろう。
あんなことをしなければ言わなければ、花恋がこうやって傷ついて泣くこともなかったのに。
でも、ああやった態度を取らなければ、詩音はいつまでも初恋を拗らせてばかりだった。
『好きだ。好きだよ、花恋』
じわり、と花恋の瞳が潤んだ。
そして、その涙が零れる前に、花恋は詩音に飛びつき、声もなく泣き始めた。
詩音は、突然かかった花恋の体重を支えながらその華奢な身体を抱き締め返す。
『好き……っ!好きだよ……!』
花恋が身体を離して、慌てたように手話で伝えてくる。
そんな花恋の前に、詩音は片膝をついて花恋を見上げ、その白い手を取った。
そして、ゆっくり口を動かす。
『お れ と』
『つ き あ っ て く れ ま す か ?』
花恋の涙が、床を濡らす。
花恋が頭を上下に振った反動で、煌めく雫が辺りに散った。
今、音楽に彩られたひとつの花が美しく咲いた。
* * *
第2音楽室に、ギターの音色と低い歌声が優しく響く。
それを聞いているのは、耳に補聴器をつけた可憐な美少女ひとりだけ。
少女はある紙を持って、弾き語りをしている少年を見ていた。
その目は、少年と紙を行き来して、たまに目が合うと、少女は笑った。
少年も、歌いながら笑う。
少女が持っていた紙には、少年が書いた『恋のうた』が書かれていたのだった。
少女に、少年のギターの音色と歌声は伝わらない。
聞こえないから。
でも、その熱い想いと愛しいと思う気持ちは、十分に伝わっていた。
* * *
『たとえ、この音が聞こえなくても。』[完]












編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!