第10話

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2026/02/06 12:00 更新
太宰との密会から一夜明け、月桃院あなたはポートマフィア本部の訓練場にいた。

 シュッ、シュッ、と鋭い空気を切り裂く音が絶え間なく響く。彼女が放つ糸は、訓練用の強化標的をバターのように易々と切断し、背後のコンクリート壁に深い傷を刻んでいた。

「……あんな言葉、ただの揺さぶりよ。分かっているのに……」

 太宰が残した「不在という名の支配」。その呪いの言葉が耳の奥で反芻され、指先の制御を乱す。糸は彼女の苛立ちを反映し、本来の精密さを欠いて荒れ狂っていた。

「おい。そんなに殺気飛ばして、壁と心中でもするつもりか?」

 訓練場の入り口に、黒いコートを肩にかけた中原中也が立っていた。彼は月桃院の様子を一目見ただけで、彼女の精神状態が「あの男」によって掻き乱されていることを見抜いていた。

「……中也。今、構っている暇はないわ」

「暇がねえのはこっちだ。首領がお呼びだぜ。黒蜥蜴が探偵社で返り討ちに遭った件についてな」

 中也は歩み寄り、月桃院がズタズタに切り裂いた標的の無惨な姿を眺めた。

「あの青鯖に会ったんだろ。昨日、勝手に持ち場を離れてどこへ行ってた」

「……関係ないわ。私は、あいつの罠を確認しに行っただけ」

「関係大ありだ。手前がアイツに絡め取られて使い物にならなくなるのは、組織の損失なんだよ」

 中也の言葉には、相棒としての忠告以上の、焦燥に近い色が混じっていた。彼は太宰が去った後の二年間、月桃院がどれほどボロボロになりながら、それでも「太宰の右腕だった自分」を守ろうと虚勢を張ってきたかを知っている。

「……私は、負けない。あの人に、もう二度と心までは売らない」

「なら、その震えてる指先をどうにかしやがれ」

 中也が月桃院の手首を掴む。
 重力使いの力強い掌の感触。それは、太宰の冷たく透き通るような手とは対照的に、熱く、確かな「生」の重みを持っていた。

「……離して。任務なんでしょう?」

「ああ。だがその前に、手前のその澱んだ空気を叩き直してやる。……あなた、手合わせだ。重力オレを捕まえてみろ」
 中也が不敵に笑い、紅い異能の光を纏った。
「来いよ、あなた! 糸がそんなに細くちゃ、重力の渦は断ち切れねえぞ!」

 中也の声と共に、訓練場の重力場が歪んだ。床がひび割れ、凄まじい圧力が月桃院を襲う。彼女は即座に指を跳ね上げ、周囲に鋼のような糸の檻を張り巡らせて圧力を分散させた。

「……分かってるわよ、そんなこと!」

 月桃院は吠えた。普段の冷徹な仮面はすでに剥がれ落ちている。彼女が放つ糸は、中也の死角を正確に、しかしどこか縋るような激しさで狙い打つ。中也はそれを紙一重で回避し、重力で強化された拳を彼女の眼前で止めた。

「……まだ太宰の影を追ってやがる。あいつに言われた『支配』だか何だか知らねえが、いつまであの亡霊に縛られてるつもりだ!」

「うるさい! あなたに私の何がわかるの!? あの人がいなくなってから、私の指先には『死』の感触しか残っていないのよ!」

 月桃院の目から、不意に涙が溢れた。攻撃の糸が乱れ、力なく中也の足元に力なく垂れ下がる。
 二年間、中也の隣で戦いながらも、彼女が見ていたのは常に「去っていった背中」だった。その事実が、中也の胸をどれほど抉ってきたか。

「……わかってねえのは、手前の方だ」

 中也は異能の光を消し、静かに距離を詰めた。彼は震える月桃院の肩を、壊れ物を扱うような手つきで抱き寄せる。

「アイツが手前を『不在で支配する』ってんなら……俺は、ここに『在る』ことで、手前を奪い返してやる」

「中也……?」

「手前の糸が、円舞曲を踊るためだけにあるって言うなら、俺がそのステップを書き換えてやるよ。……あんな青鯖に、手前の涙を見る資格なんてねえんだ」

 中也の低い声が、至近距離で響く。彼の掌から伝わる体温が、太宰との邂逅で凍りついていた月桃院の心を、無理やり溶かしていく。中也の瞳に宿る熱は、明らかに相棒に向ける以上の、深く、執着にも似た情愛だった。

「俺を見ろ、アイツの影じゃなく、今、目の前にいる俺だけを……」

 中也の顔が近づき、その唇が月桃院の額に触れようとした、その時。

訓練場のスピーカーから、無機質なアラート音が鳴り響いた。

「緊急招集。中原幹部、月桃院幹部。首領より即時の出頭命令です」

 二人の間に流れていた濃密な熱が、冷たい風にかき消される。中也はチッと舌打ちをして月桃院を離すと、照れ隠しのように帽子を深く被り直した。

「……チッ、邪魔が入ったか。行くぞ、あなた。面を洗ってこい。今の顔は、マフィアの処刑姫にしちゃァ、女の顔になりすぎだ」
訓練場から最上階の首領室へ向かうエレベーターの中、沈黙が支配していた。

 月桃院あなたは乱れた髪を整え、冷徹な「幹部」としての表情を取り戻していた。しかし、先ほど中也に抱きしめられた肩の熱だけが、どうしても消えずに残っている。

 扉が開くと、そこには夕刻の横浜を一望する広いオフィスと、椅子に深く腰掛けた森鴎外がいた。

「二人とも、いい顔をしているね。手合わせで少しは、心の曇りは晴れたかな?」

「首領……ご冗談を。それより、緊急の御用とは」

 中也が月桃院を一歩庇うように前に出る。森は手元のメスを弄びながら、楽しげに目を細めた。

「太宰君が探偵社に現れたことで、かつて彼が管理していた『遺産』が動き出そうとしていてね。……なまえ君、君なら覚えているだろう? 彼がマフィア時代、帳簿にも載せずに秘匿していた『特A級機密の金庫』の存在を」

 月桃院の記憶が、黒く塗り潰された過去へと遡る。
 太宰の側にいた頃、一度だけ彼に連れられて地下深くの廃倉庫へ行ったことがある。そこには、太宰が「いつか、世界を壊すか救うか、どちらかに使う道具だ」と笑って言っていた重厚な金庫があった。

「その金庫の鍵は、太宰君が持ち去ったと思っていた。だが、最近になってその周辺で、ミミックとはまた別の『亡霊』たちの動きがある。……中也君、あなた君。二人でそこへ向かい、遺産を確保、あるいは完全に破壊したまえ」

「御意」

 二人は短く答え、首領室を後にした。
 廊下を歩きながら、中也が低い声で月桃院に語りかける。

「……アイツの『遺産』か。碌なもんじゃねえ予感がするぜ」

「……ええ。でも、もしあの中に、あいつが私を縛り続けている『本当の理由』があるのだとしたら……私はそれを、この手で壊したい」

 月桃院の指先が、無意識に糸を編み上げる。
 中也はそんな彼女の横顔をじっと見つめ、不意にその手を強く握った。

「壊させてやるよ。……アイツの呪縛も、過去も、全部まとめて俺の重力で叩き潰してやる。だから、手前は前だけ見てろ」

 中也の言葉は、太宰がかつて与えた「命令」よりも強く、月桃院の胸に深く刺さった。
 二人は、過去の亡霊が眠る地下倉庫へと、夜の横浜を駆け抜ける。
地下深く、冷気に包まれた廃倉庫の最奥。

 二人の前に現れたのは、マフィアの最新技術でも破れないはずの、特殊合金製の重厚な金庫だった。しかし、二人が辿り着いたとき、その扉は既に数ミリだけ「開いて」いた。

「チッ、先客か? いや、違うな……。アイツがわざと開けておきやがったんだ」

 中也が警戒しながら重力で扉を押し開ける。
 中には、国家を揺るがす機密文書も、金塊もなかった。ただ一つ、中央の台座に置かれていたのは、古びた「オルゴール」と、その上に載せられた「白い蜘蛛の形をした指輪」だった。

「これは……」

 月桃院あなたが吸い寄せられるように手を伸ばす。その瞬間、オルゴールのゼンマイが自動的に回り始め、物悲しいワルツの調べが静まり返った倉庫に響き渡った。

 その旋律は、かつて彼女が「死者の輪舞」を披露した際、太宰が好んで口ずさんでいた曲だった。

「……ふざけやがって!」

 中也が激昂し、台座を殴りつける。重力で床が陥没したが、オルゴールは太宰の手によるものか、寸前で異能を無効化する特殊な細工が施されており、止まることなく流れ続けた。

「遺産なんてのは建前だ。アイツはただ、今でも手前を指先一つで操れるってことかよ……!」

 中也は月桃院の目を遮った。だが、月桃院の視線は、その白い蜘蛛の指輪に釘付けになっていた。指輪の裏側には、細い彫刻でこう刻まれていた。

『――愛する私の、操り人形へ』

 月桃院は、震える手でその指輪を掴み取った。中也は、彼女がそれをまた「大切に持ってしまう」のではないかと、恐怖に近い苛立ちで彼女を見つめる。

 しかし、月桃院の反応は、彼の予想を裏切るものだった。

「……中也。あなたの重力で、これを粉々に砕いて」

「……何?」

「この指輪も、このオルゴールも、……私の中に残っているあの人の残響も。全部、あなたの手で壊して。……私には、まだこれを壊す勇気がないから」

 月桃院は指輪を中也の手に押し付け、彼の胸に顔を埋めた。彼女の身体は、太宰への執着と、それを断ち切りたいという願いの間で激しく震えていた。

 中也は一瞬、目を見開いたが、やがてその瞳に昏い情熱が灯る。

 彼は月桃院を片腕で強く抱きしめたまま、もう一方の手で指輪とオルゴールを掴み上げ、最大出力の重力を叩きつけた。

「ああ、喜んで壊してやるよ。……アイツの影なんて、一欠片も残さねえ」

 凄まじい衝撃音と共に、太宰の遺した「呪い」は一瞬で塵へと変わった。

 鳴り止んだ円舞曲。静寂が戻った倉庫で、中也は月桃院の耳元で低く、独占欲を孕んだ声で囁いた。

「これで、アイツの持ち物は全部消えた。……これからは、俺が手前を離さねえからな」

 月桃院は、中也の心音を聴きながら、ゆっくりと目を開けた。太宰が与えた「自由」という名の孤独を、中也が「熱」という名の束縛で塗り替えていく。
 
 その夜、彼女が流した涙は、太宰を想う哀しみではなく、ようやく手に入れた「新しい檻」への安堵だったのかもしれない。
地下倉庫を後にした二人は、どちらからともなく中也の隠れ家へと向かった。

 横浜の夜景を独り占めにする高層マンションの一室。普段なら高級ワインの香りが漂うその部屋も、今は重苦しい沈黙と、雨の気配に支配されている。

「……座れよ。今、温かいもんでも淹れてやる」

 中也が上着を脱ぎ捨て、キッチンへ向かおうとする。しかし、月桃院はその後ろ姿を呼び止めるように、彼のシャツの裾を力なく掴んだ。

「……中也。行かないで」

 その声は、ポートマフィアの処刑姫としての威厳など微塵もない、ただの震える少女のものだった。中也が振り返ると、月桃院は視線を床に落としたまま、絞り出すように言葉を続けた。

「壊してって言ったのは私なのに……。あの指輪が砕ける音を聞いたとき、自分の心臓が潰されるような気がしたの。……私、まだ最低なままよ」

「あなた……」

「あの人に、あんなに酷い捨てられ方をして、あなたにこんなに救われているのに。……どうして、私の身体はまだ、あの人の声を覚えてるの?」

 月桃院の指先から、無意識に糸が伸びる。それは攻撃のためではなく、自分自身を縛り付け、崩壊を防ぐための自傷に近い拘束だった。

 中也は何も言わず、その震える指を一本ずつ解いていった。そして、彼女の細い腰を引き寄せ、深いソファに共に沈み込む。

「最低で結構じゃねえか。手前がどれだけアイツを覚えていようが、今、手前の涙を拭いてんのは俺だ」

 中也の大きな手が月桃院の頬を包み込み、強引に自分の方を向かせる。

「アイツが手前を『糸』で操るマリオネットだと思ってたなら、俺は手前を、重力で地面に縫い止めてやる。どこにも行けねえように、誰の命令も聞こえねえように……俺の腕の中だけで息をさせてやるよ」

 中也の瞳に宿る、剥き出しの独占欲。太宰の冷淡な執着とは違う、焼き尽くすような熱。
 月桃院は、その熱に浮かされるように目を閉じた。

「……いいわ。止めて、中也。私の思考も、記憶も……全部、あなたの重さで動かなくして」

 月桃院が中也の首に腕を回すと、中也は堪えきれないといった様子で、彼女の唇を奪った。
 ワインの味よりも濃密な、渇望を孕んだ接吻。
 
 中也の指が月桃院の背中をなぞり、彼女の異能の源である指先に触れる。
 その瞬間、部屋の中の重力が一気に増し、二人は重なり合ったまま、深い闇の中へと堕ちていった。

「……あなた。手前をアイツに返すくらいなら、俺は今ここで、手前と一緒に地獄へ落ちてやる」

 中也の愛の告白は、誓いというよりは呪詛に近かった。
 月桃院は、その重みに救われながら、初めて太宰のいない夜を「安堵」と共に迎えた。
 窓の外では、横浜の街明かりが滲んでいる。
 二人の影は一つに溶け合い、太宰治という名の巨大な欠落を、狂おしいほどの情愛で埋め尽くしていった。

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