慧くんがそう告げたのは、8月のある朝だった。この日はいつもよりも特別暑い一日らしく、ニュースなんかでは「過去最高!」なんて騒がれていたくらいだった。
ついに頭の方が夏の暑さでやられてしまったのかと胸をソワソワさせながら「どうしたの?」と問いかけた。
3日連絡を取らなくても生きていける慧くんに限ってそんな事は絶対にありえない。
ふん、と鼻を鳴らして勝手に顔を背ける私の背中に「なに拗ねてんのー?」と訊ねた。
洗い終わった皿に付いた水気をタオルで拭き取りながらベッ、と舌を出していじける。
背後から私の身体を優しく抱き締める慧くんの腕にそっと手を重ねた。正直あの時はここまで彼の事を好きになるなんて到底思ってなどいなかった。
でも……慧くんと会えない間の時間が、少しずつ私を“彼へ恋焦がれる乙女”へと若返らせていったのだ。
そう。好きな人に会えない時間というのは、どんな時よりもずっと“会いたいのに会えない”というもどかしい気持ちを無情に募らせていくのであった。
どうして私、慧くんなんかを好きになってしまったんだろう。
「なんか」と言ってしまったら少し語弊がある。けど20代の頃私は、不倫なんて犯罪同然だし、その上不倫なんてしてもそこに待っている結末は『不幸』しかないのだと思っていた。
絶対に不倫や浮気なんてするはずがないと心に誓ってまでいた私が、気付けば高校生の頃私を捨てた彼に恋心を抱いてしまうなんて。
別に後悔をしているわけではなかった。
ただ、そう呟けば少しは彼への気持ちが和らぐのではないかと考えたからなのだ。
絶対……絶対私に不倫は関係のないことだと思って生きてきた。
でも、例えそれが『不倫』や『浮気』のような禁断の恋だとしても………それを自力ですら止められないのが恋というものなのだろうと、私は唇を噛んだ。
心配そうに駆け寄る彼の袖をそっと握りながら、私はそっと彼にキスをした。
なんだかんだ言って、私の方からキスをしたのはこれが初めてかも知れなかった。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!