【過去の話】
「起きて。」
身体を優しく揺さぶる腕に何かが起きたのかと慌てて起き上がった。
私と目が合うとヒョンジンは少し気まずそうな顔をしながら、散歩に行こうよと上着を差し出した。
時刻は朝の5時。散歩にしては早すぎる時刻だったけど、私は上着を羽織ると彼について行った。
数歩先を歩くヒョンジンの背中を見ながら満月も一緒に見たかったなと思っていた。
こんな風にわざわざ起こしてまで彼が何かをしようなんて言うのは珍しい。
後ろからヒョンジンの指に自分の指を絡ませて手を握った。
彼が昨日あったことについて謝ろうとしていることは分かっていた。
でもそんなことしなくてもいい。
私は怒ってないし、これだけで十分だから。
壊れてしまったものは心の中においてある。
こうやってひとつずつ思い出が増えて、少しずつ先へ進んでいくのだ。
手のひらに貼った絆創膏も子供みたいに可愛いキャラクターのものにした。
ほら、こんな傷は簡単に治るよ。
謝るのが苦手なあなたのことを知ってる。
それなのに自分のことを心の中では人一倍責めていることも知っている。
だから言葉だけじゃなくてもっと深いところに大丈夫だよって伝えたかった。
私が彼の顔を覗き込むと、被っていたニット帽をグッと目の下まで下げられてしまった。
そんなこと言わなければ完璧だったのにって、ようやく彼は笑った。
視界を塞がれた私の耳に朝を告げる鳥たちの鳴き声が響き、唇に柔らかいものが触れる。
朝のひんやりとした空気の中、それはとても温かく感じた。
【現在のはなし】
フィリックスは微笑むと、玄関の前で待っていた私を両腕で強く抱きしめた。
帰ってくるの分かった?と聞かれて頷く。
もちろん彼の気配はいつだって分かった。
フィリックスの腕は微かに震えていた。
彼の手に握られていたスマホが鳴り出した。
暗い表情と声色からそれはすぐに嘘だと分かった。
心に渦巻く不安を口に出そうとした時、再びフィリックスのスマホがけたたましく鳴り始めた。
彼は画面を確認すると眉間に皺を寄せて表情を強張らせる。
それ以上何も言うことが出来なかった。
誰かの為に1番苦しい選択をしたのはフィリックスだ。
フィリックスはそう言うと私の額にキスをして急いで出て行ってしまった。
閉じた玄関のドアを見つめながら、どこにも吐き出しようのない不安がどんどん大きくなっていくのを感じる。
ヒョンジンは今どんな風に過ごしているだろう。
何を思っているだろうか。
肩に載せられた手に驚いて顔を上げる。
ぼーっとしていて後ろにハンが立っていたことにも気が付かなかった。
ハンの後をついてリビングに入ると椅子に座った。
そう言いながらハンは私の前に水を入れたグラスを置いた。そんな彼の気遣いに驚いて瞬きを何度か繰り返す。
こんなことも出来るようになったんだ、私が口を滑らすと彼は頬を膨らませて拗ね始めた。
これくらい出来るに決まってる、俺を何だと思ってたの?
子どものように怒るハンにごめんと謝った。
それでも可愛く拗ね続ける彼が、私のためにわざと明るく振る舞ってくれていることに気がつく。
でもこれは決して口にすることは出来ないと分かっていた。誰かを大切に思うと秘密はどんどん増えていく。
照れくさそうなハンが可愛くて、私はこの日初めて心の底から笑顔になった。
私もだよ。
あなたが隣の部屋にいてくれたから、あんな風に楽しく毎日を過ごすことが出来た。
二度と戻れない懐かしい日々。
ハンが微笑んでくれて、私も笑顔を返す。
私たちはお互いに同じ光景を思い出しているような気がした。
ーENDー











編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!