第5話

第5話 生不如死
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2026/08/10 11:00 更新
 真尋君は僕の親友ではなかった。恋人でもなかった。家族でもなかった。
 特別に愛したわけでも、特別に大切だったわけでもない。
 そう思っていたはずなのに、真尋君が亡くなったことで僕の心がぽっかりと開いてしまったようだった。

 今日も満員電車に乗り出勤して、誰かの死に寄り添い、事務作業をして、また電車に揺られ、近所のスーパーで3割引きになった惣菜を買って帰宅する。
 部屋の中には誰もいない。
 アクアリウムのファンの可動音が鈍く鳴っていた。

 今朝炊けた、少し乾燥している米と惣菜を温め、インスタントの味噌汁をお湯に浸す。
 ただ、口に運んでもなんの味もしなかった。
 ずっと好きだった茄子の味噌汁すらも、なんの味もしない。



 突然、軽快な着信音と共にスマホが震えた。
 息が詰まる。息が吸えない。心臓が痛い。

 スマホを裏返せなかった。
 今画面を見たら、またあの名前が表示されている気がしてしまって。
 
 手が震えて箸を落としてしまった。
 溢れる涙が止まらない。
 耳鳴りがしたせいで余計に着信音が頭に叩きつけられている気分だ。
 食べ物の匂いが気持ち悪い。

 耳鳴りの中で、誰かが僕の名前を呼んだ。
 こんな音、聞こえるはずがないのに。
 電話越しの、あの日の声。


『……先輩』


 違う。そんなはずがない。
 彼は死んだ。真尋君は死んだ。
 確かにこの耳で聞いた。
 こんな音聞こえるはずがない。
 これはただの幻聴だ。
 そう分かっているのに脳が声を再生するのをやめない。



 気づけば時計の針は21時を示していた。
 とっくに電話の着信音は止まっている。
 まだ呼吸も身体も震えているまま、スマホに恐る恐る手を伸ばした。

 着信履歴を確認すると「姉」の字。
 なんだかどっと力が抜けた。
 音声通話だと少しまだ怖かったから、ビデオ通話をかける。
 まだ起きているだろうか、下手したら子供達ともう寝てるかもしれないけど。

 しかしそんな心配も不要なほど、電話はワンコールですぐに繋がった。


『あ、もしもし和真〜?元気してら〜?』

「ああ……うん、元気だよ。そっちは?」

『めーっちゃ元気!ほら千春も大翔も、和真おじちゃんお電話してけだよ〜!』


 スマホの画面が2人の姪っ子と甥っ子の顔でいっぱいになった。
 2人ともまだ6歳と4歳で可愛らしく、見ていて癒される。


『今日ね、ちはるね、先生さ作文書いで、いっぺほめられだよ〜!』

「そうなの?すごいじゃん、頭いいんだね」

『な!っぱうちの子、あたしさ似で頭めーっちゃ良いし!』

「あれ、姉ちゃんってそんな頭良かったっけ」

『はー??あんた姉様のごど馬鹿にしてんだか〜?』


 そうやって軽い会話を交わしていた。
 聞いてみると、どうやらさっきかけた電話も、さほど大した用事ではなかったらしい。
 

『んだら和真、あんたも無理すんなでいつでも実家さ帰っといで!お盆とか絶対来てけれな?ママもパパも、千春も大翔も待ってらがらよ〜!』

「うん、でもお盆は少し立て込んでるから……時期は少しずらして帰るよ。それじゃあ切るね、おやすみ」




 通話終了を示す赤いボタンを押す。
 部屋が急に静かになり、風が窓を叩きつける音と水槽の泡が溶ける音、エアコンの唸り声だけが部屋に落ちた。

 またお盆とは時期をずらして帰る。
 確かにそう言った。
 でも、本当に帰れるのかどうかは確証が持てない。

 なんだかこの静かな空気が、またあの日のことを思い出させるようだった。


「そういえば真尋君も秋田出身だったっけ。お墓秋田にあるって聞いたな、……お墓参り、行かなきゃだよなぁ」


 余計なことを思い出してしまったかもしれない。
 そのことを考えると、より頭を重く締め付けられるようだった。



 ふと思った。

 僕はなんのためにこの世にいるんだろう。
 なんでこの世に執着して、無理やりしがみついているんだろう。

 僕にはもう、何も残っていないのに。

 僕はもう生きていない。
 本来なら普通にこうして呼吸する権利はない。
 なら、いっそ完全に生命を手放した方がずっと自然だ。










 何も調べないまま適当に結んだから、これで合ってるかはわからない。
 輪っかを作った掃除機のコードをドアノブに引っ掛け、首に括った。
 そのままゆっくり下に体重を預ける。

 ああ、これで全部終わりにできるのかな。


「あ゛っ……う゛っ、ぁ゛、……」


 この作業は思いの外苦しかった。
 何よりコードが皮膚に食い込んで痛い。


 でも、これで終わるなら。
 これで終わらせられるなら、この程度の痛み、苦しみは耐えられると思っていた。

 もし、これで本当に終わりが来るとすれば、の話だけど。

 しかし、現実は非情なもので。


 僕は納棺師である以前に死者。死命官。
 死者は現世に留まることはできても、二重に死ぬことは不可能。
 例え脳が溶けても、内臓が破裂しても。

 何分、何十分、何時間かけても死ぬことはなかった。
 そんなこと、知っていたはず、わかっていたはずだった。
 それでも、もしかしたらこの世に別れを告げられるのでは、と甘い考えを抱いてしまった馬鹿な自分もいた。




「……くそ」


 いつもは絶対言わないような言葉を吐き捨てた。

 喉周りの皮膚が摩擦で痛む。
 気管を長時間絞めていたためか、まだ少し頭がぐらっとする。




 僕はいつになったら許されますか。

 僕はいつになったら終われますか。
  
 僕は……





 ……ああ、そうだ。
 なんで今まで思いつかなかったんだろう。

 
 最初からこうすればよかったのに。


 さっきまでぐったりしてた身体が嘘のように動き始める。
 和紙製の便箋を机に敷き、万年筆を滑らせた。



【退職届】







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 ↪August 15th
【謝罪】


淡井とおると申します。
予約投稿を忘れてしまっていたため、投稿が遅くなってしまいました。
楽しみにしてくださっていた皆様には深くお詫び申し上げます。

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