前の話
一覧へ
次の話

第1話

大嶺酒場
4
2025/10/12 06:53 更新
深夜の東国。雨がやんだばかりの街の空気は、地下へ降りる階段の手すりにまで湿気を残していた。  
ラ=イルはその階段を乱暴に踏み鳴らしながら、大嶺酒場の扉を押し開けた。鈍い鈴の音が響き、カウンターの向こうでグラスを磨いていた大嶺陸莉が顔を上げる。

「ずいぶん派手に来たじゃない」

「派手にしたつもりはない。ただ静かにムカついてるだけだ」

陸莉は苦笑しながら、琥珀色の液体をボトルから注ぐ。

「いつもの?」

「いや、今日は強めに。腹の中、油でも流したくてさ……すげぇ、だりぃのよ」

ラ=イルは無骨な手でグラスを掴み、喉を鳴らして一気に飲み干した。
息を吐く。その息が熱を持っているほど、苛立ちは本物だった。

「オジェのやつ、また出勤してやがった。あいつがいるだけで空気が腐る」

「相変わらず仲が悪いわね」

「仲? 冗談極めてる。僕はあいつの顔も服も、呼吸の仕方まで受け付けらんないわぁ」

ラ=イルの言葉には刃があった。
テーブルを叩くたび、指先の力で木材がわずかに鳴る。

「服はいつもあの訳のわからんファスナー付きワイシャツに、何だあのアコーディオンだか蛇腹みたいな前掛け。ブーツもおかしい。…そもそもブーツって何だっての。あいつの全てが気に障る。髪まで僕と同じ白だってのが腹立たしいしキモイ」

陸莉は黙って灰皿を滑らせた。ラ=イルは吸い慣れた煙草をくわえ、火をつける手つきも荒い。

「それにあいつ、あの“金血”とかいう変なもん飲んでから、言葉が変わった。全部に答えやがる。何言っても、“的確な返事”とやらで切り返してくる。質問に詰まらない生き物ほど気味が悪いもんはないな」

陸莉は煙を細く吐き出しながら、静かに尋ねた。

「羨ましいとは思わないの?」

「……え? アレ? 冗談じゃない。頭で考えるより先に何かが勝手に動く以上なんて、ケダモノのすることだ」

天井の換気口からジャズが流れる。
低いベースの音に合わせて、ラ=イルの肩が少しだけ緩む。

「結局、お前も寂しいのね」

「寂しい?」

ラ=イルは陸莉を睨む。

「僕が?」

「嫌うって、目を逸らしたい寂しさの裏返し。あいつを見なきゃならない理由が、きっとまだあるんでしょ」

ラ=イルは無言になった。煙が紫に溶ける。グラスの中で氷がひとつ崩れ、夜の音だけが残る。
やがて低い声で呟いた。

「……キメェの。あいつが、人間の枠を超えたみたいな顔してるのが。僕はまだ、この世界の感覚に縋っていたい」

陸莉は軽くうなずき、新しい酒を注ぐ。

「じゃあ、飲みなさい。その“世界”の味がするやつを」

ラ=イルは再びグラスを持ち上げ、氷を鳴らした。
酒は喉を焦がし、怒りも寂しさも、夜の底に沈んでいく。

プリ小説オーディオドラマ