深夜の東国。雨がやんだばかりの街の空気は、地下へ降りる階段の手すりにまで湿気を残していた。
ラ=イルはその階段を乱暴に踏み鳴らしながら、大嶺酒場の扉を押し開けた。鈍い鈴の音が響き、カウンターの向こうでグラスを磨いていた大嶺陸莉が顔を上げる。
「ずいぶん派手に来たじゃない」
「派手にしたつもりはない。ただ静かにムカついてるだけだ」
陸莉は苦笑しながら、琥珀色の液体をボトルから注ぐ。
「いつもの?」
「いや、今日は強めに。腹の中、油でも流したくてさ……すげぇ、だりぃのよ」
ラ=イルは無骨な手でグラスを掴み、喉を鳴らして一気に飲み干した。
息を吐く。その息が熱を持っているほど、苛立ちは本物だった。
「オジェのやつ、また出勤してやがった。あいつがいるだけで空気が腐る」
「相変わらず仲が悪いわね」
「仲? 冗談極めてる。僕はあいつの顔も服も、呼吸の仕方まで受け付けらんないわぁ」
ラ=イルの言葉には刃があった。
テーブルを叩くたび、指先の力で木材がわずかに鳴る。
「服はいつもあの訳のわからんファスナー付きワイシャツに、何だあのアコーディオンだか蛇腹みたいな前掛け。ブーツもおかしい。…そもそもブーツって何だっての。あいつの全てが気に障る。髪まで僕と同じ白だってのが腹立たしいしキモイ」
陸莉は黙って灰皿を滑らせた。ラ=イルは吸い慣れた煙草をくわえ、火をつける手つきも荒い。
「それにあいつ、あの“金血”とかいう変なもん飲んでから、言葉が変わった。全部に答えやがる。何言っても、“的確な返事”とやらで切り返してくる。質問に詰まらない生き物ほど気味が悪いもんはないな」
陸莉は煙を細く吐き出しながら、静かに尋ねた。
「羨ましいとは思わないの?」
「……え? アレ? 冗談じゃない。頭で考えるより先に何かが勝手に動く以上なんて、ケダモノのすることだ」
天井の換気口からジャズが流れる。
低いベースの音に合わせて、ラ=イルの肩が少しだけ緩む。
「結局、お前も寂しいのね」
「寂しい?」
ラ=イルは陸莉を睨む。
「僕が?」
「嫌うって、目を逸らしたい寂しさの裏返し。あいつを見なきゃならない理由が、きっとまだあるんでしょ」
ラ=イルは無言になった。煙が紫に溶ける。グラスの中で氷がひとつ崩れ、夜の音だけが残る。
やがて低い声で呟いた。
「……キメェの。あいつが、人間の枠を超えたみたいな顔してるのが。僕はまだ、この世界の感覚に縋っていたい」
陸莉は軽くうなずき、新しい酒を注ぐ。
「じゃあ、飲みなさい。その“世界”の味がするやつを」
ラ=イルは再びグラスを持ち上げ、氷を鳴らした。
酒は喉を焦がし、怒りも寂しさも、夜の底に沈んでいく。












編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!