「 ……起きろ 」
誰かの手に、体が揺さぶられる感覚。
まだ寝ていたいからやめてくれ。
そんな心地で、低い唸り声を返した。
呆れたような溜息が聞こえる。
「 随分と肝の据わった奴だな。
おい、起きろ。死ぬぞ 」
瞬間、ザッ、と眼前で凄まじい音が鳴った。
咄嗟に目を開くと、そこには艶やかに光を反射する白刃。
仰け反るようにして飛び退き、起き上がった。
白刃を背の鞘に戻した男が、此方を見て溜息を吐く。
「 この荒野で眠り、あまつさえ声を掛けられても起きんとはな。
世が世であれば、貴殿は身包み剥がれて猛獣の群れに投げ込まれていただろうよ 」
銀にも見える、やんわりと青みがかかった白のフード付きマント。
男の肩に乗った黒猫が、なあぅ、と興味無さげに鳴いた。
「 ……自分の名前は分かるか? 」
すこし、自分の頭の中を探って。
わからない、ゆるりと頭を振った。
口を開いても、喉から声が出なくて、意思を知らせる手段が身振り手振り以外に無かった。
「 ……声も出んか。自分が何処に居たかは? 」
わからない。
また、首を振る。
こめかみに皺を寄せた男が、喉の奥で声を飼い慣らした。
絶妙に苛立っているのか、それとも困惑しているのかが分からないラインだ。
「 …記憶喪失、失語、こんな場所に倒れていた理由も不明……
十中八九、訳ありだな。しかも込み入った、面倒で、それこそ俺が手出しするべきではないような… 」
にゃあ、と、黒猫が、抗議するかのように鳴いた。
男は瞼を閉じ、ゆるりと首を振る。「わかっている」とでも言いたげに。
「 騒がしいぞ、“観測者”。俺とてその程度は了承の上だ。 」
「 んにゃあ? 」
「本当か?」と聞くように、黒猫が鳴き返した。
それには返事を返さず、男はじっとこちらを見つめる。
値踏みするような、覚悟を確かめるような、そんな色合いの視線で。
「 ……全く。此度のものは、杜撰にもほどがあるだろう…
…尻拭いをさせられるのは遺憾だが、やらねばならんことは確かだ。 」
手を差し伸べられた。
「 立てるか? 」
迷わず、その手を取って、立ち上がる。
黒猫がビーズのような空色の瞳を此方に向けて、なぁう、と一鳴き。
しっぽが機嫌が良さそうに揺れていた。
「 …………俺に名乗る名は無いが…呼び名が無いのも不便だ。一応、教えておこう。
“放浪者”と言えば大抵の者には通じる。“凶兆の者”、“星渡り”、“無郷の旅人”……
“アトラスの来訪者”なんてのもあるが…まあ、覚えておくのは“放浪者”だけで十分だ。 」
「 なぁーう、ふにゃあ 」
「 こっちのことは“紫金山の観測者”と俺は呼んでいる。
他は”黒猫”、“凶兆”、“吉兆”、“使い魔”……まあ、“黒猫”で十分だろう 」
「 んにゃぁっ! 」
不服そうにぱしっと尻尾で“放浪者″を叩いた“黒猫“。
人の言葉を解するような挙動だ。空色の瞳が、こちらを見ている。
「 名前…があっても、口が聞けねば言えまい。
勝手に呼び名だけは決めるが、なにか不満はあるか? 」
首を横に振った。
自分の名前もわからなかった。
「 ″テルス“でどうだ。陳腐だろうが、俺に小洒落た感覚を求めてくれるなよ 」
「 にゃぁう 」
「 騒がしい。文句があるならお前がやれ 」
「 んにゃーぁお 」
テルス。テルス。……テルス。
唇を動かして、その名前を反芻する。
不思議と、心の中にぽっかり空いたパズルに、ピースがはまった心地がした。
「 気に入ったか?それは重畳。
さて…まずは貴殿の身元の確認から行うべきか。
ナジュムバザールに行くか、星見邸に行くか……… 」
黒猫がこちらを見る。「聞き覚えはあるか?」と言いたげに。
首を振った。バザールは市場、星見邸は館か家だろう、とは想像はつくが。
「 ……そうだ。テルス、少し頭の中で誰かに呼びかけてみろ。 」
なんでだ。
とは言え、異論を言える立場ではないので、おとなしく頭の中でいるかも分からない誰かに呼びかけてみる。
聞こえますか。誰かいますか。返事は返ってこなかった。
「 呼びかけに別の声が応えはしなかったか? 」
首を横に振った。なんの声もしなかった。
″放浪者“は「そうか」とだけ言って、ゆるゆると首を振る。
「 ナヴィガトリアとすら面識がないか。難儀だな…… 」
ナヴィガトリア?
聞き馴染みのない単語に首を傾げた。
誰かの名前なのだろうか。それにしては言いづらい。
「 そうとなれば、ナヴィガトリアに会うことが最優先か。
テルス、歩けるか? 」
頷く。体は動く。
「 そうか、なら良い。ここから少し進んだ場所に、人のいる場所がある。
あそこであれば情報はある程度集まる。貴殿の意思表示についても、どうにかなるはずだ。
着いて来れるか? 」
頷いた。
無に近い表情を静かに湛えていた端正な顔が、僅かに笑む。
「 幸いにもここはズヴェズダから遠い。戦火に巻き込まれはしないだろう 」
はて、ズヴェズダとは?
浮かべた疑問は疑問のまま。
こちらに背を向けて歩き出した“放浪者″の背中を追う。
変わり映えのない、平原の風景だ。
黄金色に照らされた草木は、風に吹かれて揺れている。
夏草や、兵どもが夢の跡。
ふと浮かんだ一文だが……誰の、なんだっただろうか。
鈍痛が頭を襲った。思い出せない。
「 なぁーぉ 」
黒猫がひと鳴き。
“放浪者″が歩みを止める。
こちらも歩みを止めた。
獣の匂いが風に乗って、ふわりと漂ってくる。
獣の持つ特有の、独特な、あの匂い。
それと同時に、ぐちゃり、べちゃりというような変な音もした。
まるでインク……いや、泥を引き摺るような。
「 変異動物か……獅子? 」
「 んにゃ 」
「 ………いや、そうか。合成獣だな 」
確かに、一見はライオンに見えた。
しかしその尾は蛇で、胴体はよく見ればヤギ。
キメラ__神話にも名高い、怪物が、そこにいた。
明らかに危険だとわかる、禍々しい、黒い泥のような何かをまとって。
「 テルス。確認の為聞くが、貴殿は戦えないな? 」
即座に首を縦に振った。記憶も知識もないが、分かる。無理だ。
険しい顔になった“放浪者″は、背中の鞘から白刃を抜き放つ。
「 おい、“観測者″。テルスを星見邸まで先導しろ! 」
「 にゃぁう 」
「 テルス、貴殿はこいつの後を着いて行け。俺もこれを片付ければすぐに行く 」
“放浪者″の肩から飛び降りた黒猫が、こちらを見上げて尻尾をゆらゆらと揺らした。
黒猫が“放浪者″の隣に並び立つ。″放浪者“が剣を構える。
「 行け!! 」
瞬間、“放浪者“は泥の獣に飛びかかり、黒猫はその横を通り抜けて走り出した。
一瞬固まったものの、言われた言葉を思い出して、黒猫のあとを着いて走り出す。
後方から打撃らしき鈍い音と泥の音、獣の咆哮が聞こえてきた。
足が鈍る。最悪を想像して、走る速度が落ちる。
「 なぁぅ 」
前を走る黒猫が、ひと鳴き。
「どうせアイツなら大丈夫だ」とも、
「心配している暇があれば走れ」にも、
「託されたものを無駄にするな」とも、聞こえた。
足が、自然と動きはじめる。
走って、走って、走って。
肺と心臓が爆発するのでは、と思うほど走って、足がまわらなくなってきた頃。
地平線の上に、大きな岩のような塊と、小屋のような影が見えた。
「 にゃあ 」
「もう少しだ」と、黒猫が鳴く。
その言葉通り、もう少し、足を動かして__その小屋の扉に、手を掛けた。
☆ Tips : Where ?
“あなた”が目覚めたのは、アステーリ平原の中央に程近い箇所である。
中央からの距離はナジュムバザールとトントンだが、ナジュムバザールとはそう近いわけでもない。
ただし、アステーリ平原故に、やはり変異動物に襲われてしまった。
☆ Person : “放浪者”
黒猫を連れ、青みがかかった白のマントと同色の瞳、黒に近い灰の髪を持つ男。
“凶兆の者”、“星渡り”、“無郷の旅人”、“アトラスの来訪者”…等、名前が不明な割に呼び名が多い。
年齢不詳。時間の感覚が明らかに人間と比べて可笑しい辺り、長命種と推測される。
実は案外茶目っ気のある一面も。
☆ Trivia : 紫金山・アトラス彗星
2023年に少々世間を騒がせた、長周期彗星。
地球最接近時の明るさは、場合によっては金星をも超えた。
その周期は約23万年とも、1.4億年とも言われている。
2023年の周期で軌道が変わり、もう戻ってこないとも言われる。
まあ軌道が変わろうが変わらまいが、どっちみち今を生きる地球人類には二度と見えないのだが。












編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!