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第4話

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2026/01/28 17:53 更新

その日は二人の誕生日。
この世に生を受けた本当の日付は神、あるいは施設の人間のみが知るところだったが、嵐の夜に逃げ出した日--互いに名付けあった日ーーから丁度8年が経った日だった。

アルバイトが終わり早足で帰宅した少女は、今日は特別な日だからと腕によりをかけてご馳走を拵えた。帰り道に寄った少し値の張るパティスリーで、リオの好きなチーズケーキと少女が好きなショートケーキも用意した。
いつもは寂しい小さなローテーブルの上は、湯気の経つあたたかな料理が埋め尽くしていた。















しかし、リオは帰宅時間を過ぎても帰ってこない。
時計の短針が9を過ぎ、10、11と進んでいく。


[今日は遅くなるの?]

メッセージを送っても既読すらつかず、電話にも出ることはなかった。
鳴り響く呼び出し音だけが、静まり返った部屋に虚しく反響する。

料理はすっかり死んだように冷えきってしまった。
ショートケーキのクリームはゆっくりと柔らかくなり、上に乗ったいちごが心許なげに傾いていた。


窓の外の喧騒が遠ざかり、深夜の静寂が部屋を満たす頃、少女の心臓は経験したことのない、鋭い予感に締め付けられた。





何かがおかしい。





そう感じたが、街に出てきた二人に頼れる知り合いは一人もいない。
携帯の履歴を遡っても、並んでいるのはリオの名前と、施設職員だったアルノとの事務的なメッセージ履歴だけ。

アルノにも何か知らないかとメッセージを送っても何の返信もない。

少女は実験施設を出てから外の世界はこんなにも広いと感動さえしたのに、自分たちがそれと繋がっている糸は、驚くほど細く、息を吹きかけただけでもちぎれそうなほど心許ないことに今更気付いてしまった。











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リオが姿を消してから2日が過ぎた。テーブルの上の料理は冷たく乾いたまま、そこにある。
片付けてしまったら、彼の存在そのものがこの世から無くなってしまうような気がしてたまらなく怖くなったのだ。




少女は冷たい部屋の中で震える足を奮い立たせ、警察署へ向かった。




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「ですから、一言の連絡もなく帰ってこないなんて、絶対にありえないんです」

窓口で必死に訴える少女に対し、担当した初老の警察官は面倒くさそうに欠伸を噛み殺した。
差し出された婚姻関係のない二人の住民票を、興味なさげに眺める。

「お嬢さん、成人した男が数日連絡を絶つなんて、この街じゃ珍しくもないんだよ。ましてや同棲中の男女だ。喧嘩でもして、嫌気が差してどっか別の女のところへ転がり込んだとか、そういうのが関の山さ。事件性がない限り、警察はいちいち動けないんだよ。あんたも深追いしない方が身のためだ」

投げ捨てられた言葉は、部屋に残してきた冷え切ったスープよりも残酷に少女の心を凍らせた。




警察が頼りにならないのなら、と向かったエイル製薬でも、結果は同じだった。

「彼は一身上の都合で退職しました。その後の行方については、個人情報の観点からもお答えできかねますし、そもそも把握しておりません」

受付の女性は、調教されたような無機質な笑顔で少女を追い返した。
業界最大手のホワイト企業を謳う会社が、期待の新人であったはずのリオの失踪を、まるで最初から存在しなかったかのように事務的に処理している。その不自然なほど滑らかな拒絶に、少女の疑念は深まる一方だった。


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空っぽに思える小さな部屋に戻った後、何か手がかりはないかと、部屋の中を隅々まで調べた。
手付かずの夕食の残骸が置かれたままの、冷え切った部屋。

少女は何かに取り憑かれたかのようにリオの私物をひっくり返した。
何かないのか。彼の行方を示す手がかり。彼がどこへ消えたのかを示す、ほんのわずかな破片でもいい。

押し入れの奥に押し込められたボストンバッグ、着古したシャツのポケット。
少女は必死に床を這い、目に付くもの全てを手当たり次第に調べていった。
その背中を、片方の主を失った部屋の静寂が冷たく見下ろしていた。


ふと、窓際に積み上げられていた、リオが大学時代から読み耽っていた難解な参考書や研究資料の山に少女の腕が当たった。その衝撃で、聳え立ったそれらのバランスが崩れ、数冊の厚い本や書類が乾いた音を立てて床に散らばった。

崩れた本の山の間から、一冊の小さな黒い革表紙の手帳が、まるでずっとそこにあったことを主張するように滑り落ちた。

それは少女が今まで一度も見たことのないものだった。
少し躊躇った後、徐にその手帳を手に取ると、震える手でページを捲った。
そこにはアルノから教わったはずの流麗な筆致が、徐々に余裕を失ったように、殴り書きのような焦燥に満ちた何かの調査メモへと変貌していく様が記録されていた。

【調査メモ:エイル製薬 外部資金フロー】
・財団「エーギル」からの巨額寄付。
・エーギルの傘下組織リストにエイル社の名前あり。
・かつての俺たちの脳波、神経共鳴のデータは、すべてエイル社の新薬開発セクションへ転送されていた。




ページを捲るたび、少女の呼吸と脈拍が早まっていく。




【エイル社の内部サーバーで、あの実験施設の「継続調査報告書」を見つけた。
俺たちが保護されたのも、教会へ送られたのもすべては計画の一部だった。
奴らは、俺たちをあえて外の世界に放流した。
自由を与え、希望を持たせ、あらゆる感情を育ませる。そうやって心が最も豊かに成熟した瞬間に、その成果を収穫する。
それが、この5年間の「野外観察実験」の本当の目的だった。
気付くのが遅すぎた。】













奴らはリオたちが施設を逃げ出してからずっと観察していた。














…ずっと?




















そんな、まさか。
鼓動が早鐘を打つ。
































ずっと私たちのそばにいた人なんて、1人しかいない。



































【アルノは、監視員だ。】



少女の喉から、短く掠れた悲鳴が漏れた。

アルノ先生。
あんなに優しく、自分たちに「光」を教えてくれた恩師。
その正体が、自分たちに「自由」という名の餌を与え、丸々と実るのを待っていた監視員だったなんて。

【修道士アルノ、いや、ジャン・ジアハオ。彼が俺をこの会社に推薦したのは、俺に才能があったからじゃない。
「野外観察実験」の最終段階。社会生活の中での被験者の「精神的成熟」と、それに伴う「神経共鳴の極大化」。奴らは、俺たちが社会に出てさまざまな感情が芽生えるのを、ずっと前から観察していた。】



手帳の最後のページには、彼が消えた前日の日付が記されていた。

【〇月×日】
ようやく証拠が揃った。
ジャン・ジアハオ、そしてエイル社の非人道的な人体実験の実態。これを世に出せば全てが終わる。

その言葉と共に、「ソール出版社」という会社名と電話番号の走り書きが添えられていた。








彼女は悟った。
リオは出版社へは辿り着けなかった。
待ち合わせの場所に向かう途中で、あるいはその直前に、背後の闇から伸びてきた暗い暗い手によって捕らえられたのだ。

絶望に目の前が暗くなる少女の指先に、手帳の裏表紙に挟まれていた一通の小さな封筒が触れた。

震える手で封を切ると、中から出てきたのは一枚の便箋と一対の華奢なシルバーリングだった。
シンプルなデザインの真っ白な便箋を開くと、そこには馴染みのあるリオの筆跡が並んでいた。







『〇〇へ

誕生日おめでとう。(俺もだけど!)
本当はお前が行きたがってた草原に着いてからサプライズで渡したかったんだけど、我慢できなくて先に書いておきます。

これから先、ずっと一緒に飯を食って、一緒に寝て、たまに些細なことで喧嘩して。
喜びは2倍に、悲しいことは半分に。

そんな世界中の誰でも持っている当たり前を、これからは全部、俺たちのものにしよう!

ずっと隣にいてくれてありがとう。

リオ』






便箋の右下の隅、文末にひときわ強い筆圧で何かが書かれ、そして塗りつぶされた黒いインクの塊があった。
少女は、徐にルームライトにそれを透かした。
そこには何度も躊躇したような跡のあと、ただ一言、「愛してる」という文字が、不器用な線で隠されるように綴られていた。

その文字を見た瞬間、少女の視界はゆらゆらと霞んでいった。

彼がどんな表情でペンを走らせ、そしてどれほど激しい葛藤に押し潰されそうになっていたのか。
インクの滲み一つ一つから、リオの体温と、未来に対する純粋なまでの希望が嫌というほど感じられ、胸が引き裂かれるような痛みに襲われる。

「明日」は来るはずだった。
「愛してる」は、その口から直接聞けるはずだった。

彼の不器用でありながらもまっすぐな言葉が、今は世界で一番残酷な刃となって少女に突き刺さっていた。


「……あ、……ぁ…………」

少女は手紙を胸に抱き、冷え切った床に頽れた。
手紙の中の言葉はこんなにも温かく、穏やかな光に満ちているのに。

彼は、もうこの部屋にはいない。
自由を、当たり前の日々を、一生懸命に手繰り寄せようとした彼の手は、その指先が光に触れる寸前で、再び暗闇へと引きずり戻されたのだ。



少女は、リオが残したリングを震える指先に通した。
それは驚くほど軽く、そして、凍りつくように冷たかった。
あまりにも細いその銀の輪は、守るべき約束の印というよりは、もはや鎖が千切れ、二度と繋がることのない手錠のように思えた。

薬指の根元まで滑り落ちた冷気が、そのまま心臓へと吸い込まれていく。指を曲げるたび、硬い金属の感触が「彼はもういない」という事実を、拍動に合わせて突きつけてくるようだった。




窓の外では、何も知らない夜が更けていく。
少年と少女が夢見た、パンとコーヒーの匂い、二人の笑顔で満ちる当たり前の明日なんて、最初からどこにもなかった。

ただ、冷え切って脂の浮いたスープの表面が、部屋を照らすルームライトの光を鈍く反射させている。いちごのショートケーキは自らの重みに耐えかねて無惨に崩れ、甘ったるい匂いだけが、逃げ場のない七畳の底に沈殿していた。




少女は、リオから贈られるはずだった指輪を焦点の合わない瞳で見つめ続けていた。

静まり返った狭い部屋の中、独り残された彼女の時間は、あの日彼と名付け合った瞬間に止まったまま、二度と動き出すことのない砂時計の底に埋もれていくようだった。



END













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最後まで読んでいただきありがとうございました。
X(shi0yasan)にてifストーリーも上げる予定なのでよろしければ覗いてみてください〜!

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