前の話
一覧へ
次の話

第1話

1
343
2026/02/14 10:00 更新
━━━━━━━━━━━━━━━





​バイオリンの弦が、鋭い音を立てて切れた。







​「……あ」







​指先に走った小さな痛みに、僕はようやく自分が呼吸を止めていたことに気づく。






練習室の冷えた空気の中切れたE線が力なく跳ねていた。






かつて僕の演奏を「春の風みたいだ」と笑って聴いてくれた人は、もうどこにもいない。






​ハンビナがいなくなってから一ヶ月が経とうとしていた。







​僕たちの関係は、高校の放課後の音楽室から始まった。





窓際でバイオリンを弾く僕と、その隣で文化祭のダンスの練習をしていた彼。





全く違うリズムで生きていたはずの僕たちは、いつの間にか同じ歩幅で歩くようになった。







彼はその後、現実的な道を選んで会社員になったけれど、僕の演奏の一番の理解者であることは変わらなかった。








​『ハオ、今日の演奏も素敵だったよ。帰りに美味しいケーキ買って帰るね』










​そんな何気ないLINEが最後だった。








雨の日の夜、無理な追い越しをしたトラックが、彼の人生を、そして僕たちの未来を奪い去った。












​それからの僕は、抜け殻のようだった。






四十九日が近づくにつれ、周囲は「そろそろ前を向かないと」と優しい言葉をかけてくれる。







けれど、僕にとっての「前」には、いつもハンビナが立っていた。







彼がいない方向に進むことは、僕にとって裏切りと同じだった。












​重い足取りでマンションに帰る。




二人で暮らすには少し手狭だったはずの1LDKは、一人になった途端、持て余すほど広く感じられた。






​玄関の鍵を開け、暗闇に向かって「ただいま」と呟く。返ってくるのは、冷蔵庫の低い唸り声だけ。







コートも脱がず、リビングのソファに倒れ込む。







棚に飾られた、高校の卒業式に二人で撮った写真。



慣れないスーツに身を包んだ彼が、照れくさそうに僕の肩を抱いている。




その指先の温もりまで思い出せそうなのに、手を伸ばしても触れられるのは冷たいガラスだけ。









​「……嘘つき。ずっと一緒にいるって言ったのに……」










​一度溢れ出した涙は止まることを知らず、僕は膝を抱えて子供のように泣いた。








ハンビナ、会いたい。



声が聞きたい。



名前を呼んで、あの時みたいに抱きしめて……。











​どれくらい泣いただろうか。



不意に、暗い部屋の中にふわりと甘い香りが漂った。






​それは、ハンビナが愛用していた柔軟剤と、彼がいつも飲んでいたアールグレイが混ざったような、僕だけが知っている彼の「匂い」だった。








​(……この匂い。)








​鼻の奥がつんとするような、懐かしい気配。





ふと顔を上げると、月明かりが差し込むキッチンカウンターの前に、誰かが立っていた。






​逆光で顔は見えない。


けれど、そのシルエット、少し右に傾く立ち姿、そして何より、僕を見つめる眼差しの温度。









​「ハオ……またそんなところで寝て。風邪引くよ?」











聞き間違えるはずがない。





僕の耳に一番心地よく響く、あの琥珀色のような、温かくて柔らかな声。








​「はん……びな……?」









​恐る恐る声を出す。


幻なら、すぐに消えてしまうだろう。








でも彼は困ったように眉を下げて笑った。



高校生の頃から変わらない、彼特有の、愛おしさが詰まった表情。









​「ただいま、ハオ。ちょっと遅くなっちゃったけど……約束通り、会いに来たよ」










​そこに立っている彼は、生前と何ら変わりない姿をしていた。





ネクタイを少し緩めた仕事帰りの格好のまま、
彼は、僕の方へ歩み寄る。






​……けれど彼が歩くフローリングに足音は響かなかった。





━━━━━━━━━━━━━━━






プリ小説オーディオドラマ