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バイオリンの弦が、鋭い音を立てて切れた。
「……あ」
指先に走った小さな痛みに、僕はようやく自分が呼吸を止めていたことに気づく。
練習室の冷えた空気の中切れたE線が力なく跳ねていた。
かつて僕の演奏を「春の風みたいだ」と笑って聴いてくれた人は、もうどこにもいない。
ハンビナがいなくなってから一ヶ月が経とうとしていた。
僕たちの関係は、高校の放課後の音楽室から始まった。
窓際でバイオリンを弾く僕と、その隣で文化祭のダンスの練習をしていた彼。
全く違うリズムで生きていたはずの僕たちは、いつの間にか同じ歩幅で歩くようになった。
彼はその後、現実的な道を選んで会社員になったけれど、僕の演奏の一番の理解者であることは変わらなかった。
『ハオ、今日の演奏も素敵だったよ。帰りに美味しいケーキ買って帰るね』
そんな何気ないLINEが最後だった。
雨の日の夜、無理な追い越しをしたトラックが、彼の人生を、そして僕たちの未来を奪い去った。
それからの僕は、抜け殻のようだった。
四十九日が近づくにつれ、周囲は「そろそろ前を向かないと」と優しい言葉をかけてくれる。
けれど、僕にとっての「前」には、いつもハンビナが立っていた。
彼がいない方向に進むことは、僕にとって裏切りと同じだった。
重い足取りでマンションに帰る。
二人で暮らすには少し手狭だったはずの1LDKは、一人になった途端、持て余すほど広く感じられた。
玄関の鍵を開け、暗闇に向かって「ただいま」と呟く。返ってくるのは、冷蔵庫の低い唸り声だけ。
コートも脱がず、リビングのソファに倒れ込む。
棚に飾られた、高校の卒業式に二人で撮った写真。
慣れないスーツに身を包んだ彼が、照れくさそうに僕の肩を抱いている。
その指先の温もりまで思い出せそうなのに、手を伸ばしても触れられるのは冷たいガラスだけ。
「……嘘つき。ずっと一緒にいるって言ったのに……」
一度溢れ出した涙は止まることを知らず、僕は膝を抱えて子供のように泣いた。
ハンビナ、会いたい。
声が聞きたい。
名前を呼んで、あの時みたいに抱きしめて……。
どれくらい泣いただろうか。
不意に、暗い部屋の中にふわりと甘い香りが漂った。
それは、ハンビナが愛用していた柔軟剤と、彼がいつも飲んでいたアールグレイが混ざったような、僕だけが知っている彼の「匂い」だった。
(……この匂い。)
鼻の奥がつんとするような、懐かしい気配。
ふと顔を上げると、月明かりが差し込むキッチンカウンターの前に、誰かが立っていた。
逆光で顔は見えない。
けれど、そのシルエット、少し右に傾く立ち姿、そして何より、僕を見つめる眼差しの温度。
「ハオ……またそんなところで寝て。風邪引くよ?」
聞き間違えるはずがない。
僕の耳に一番心地よく響く、あの琥珀色のような、温かくて柔らかな声。
「はん……びな……?」
恐る恐る声を出す。
幻なら、すぐに消えてしまうだろう。
でも彼は困ったように眉を下げて笑った。
高校生の頃から変わらない、彼特有の、愛おしさが詰まった表情。
「ただいま、ハオ。ちょっと遅くなっちゃったけど……約束通り、会いに来たよ」
そこに立っている彼は、生前と何ら変わりない姿をしていた。
ネクタイを少し緩めた仕事帰りの格好のまま、
彼は、僕の方へ歩み寄る。
……けれど彼が歩くフローリングに足音は響かなかった。
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編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!