第3話

3
1,610
2023/01/16 22:53



「会いたかった」


雷鳴が響く。
雷光が、恐ろしい程に整った綺麗な顔をカッと照らした。

片手に持った黒い傘は、雨に濡れたままでカバーもせずに引きずっている。今日の気温では肌寒く感じるほどの薄い真っ白なブラウス、三本のベルトで締められた腰元とベルボトム型の黒いパンツには金色の糸で花の刺繍が入っていて、どれも高価な値のつくような服ばかりだ。

ジャニを射止める目が、不意に横の女性看護師へ移動した。徐々に口元の笑みは消え失せ目を細め、逞しい腕に絡んだ女の細い腕を鬱陶しそうに見下ろしている。カツカツと傘の先で地面を突いて音を立てる仕草はまるでカウントを取るようで、ぞわりと背筋の神経を撫でられるような感覚を感じた彼女はバッとジャニから離れて立ち上がった。

さすれば止む、カウント。
取り戻される口元の笑みと大きな目は、瞬く間にジャニが奪い取った。お互いを見る目に同じ感情はない。


「何しに…」

「会いに来たの、ヒョンが夢に出てきたから」

「帰れ」

「テンを見つめてる」


テンはそう言いながら目線を合わせたまま笑った。
全く話を聞く気がない。自分の気分のままに、場の状況や空気感など気にせずに楽しんでいる。普段温厚なジャニから発される冷たさと怒りを含んだ声色にすらものともしない姿に、その場にいる誰もが冷や汗と焦りを感じた。
ジャニから顔を逸らして、優雅な猫の如く院内を物色するように歩き始めた。ガリガリと傘の先で床を引っ掻いたまま、簡素な院内に何か面白いものを探そうと天井や観葉植物に逐一目をつけていく。しかし結果的に彼の目を引いたのは、受付のカウンターに飾られている黒猫のマスコットだった。指先でそっとそのマスコットを取って、目を細めながら笑う。あの表情は、必ず自分のものにしてやると言って聞かぬ顔だ。

テンは受付の椅子に座る女性へ問いかけた。
しかし、目線はずっと黒猫のマスコットに向いたまま。


「ねえ、これ頂戴?」

「っえ?」

「欲しいの」

「…あっえっと、それは」


戸惑い声を詰まらせる彼女に、テンは懲りずに答えを待って首を傾げた。得体の知れぬテンに断りを入れればどんな仕打ちが返ってくるかと怖気付いてしまうのも無理はない。そうしているうちにも、テンはマスコットを懐に入れそうな勢いで手の中に収めている。
ジャニは押し殺し損ねた溜息を漏らしながら、早足で受付の女性とテンの間に割り入った。素早い手つきでマスコットを取り上げて元の位置に戻すと、彼の手首を掴んで人のいない廊下の方へと引っ張って連れて行った。彼らの背中を、看護師達は心配そうに見守っている。


「人を困らせるなら帰れ。付いてくるな」

「従う義理ないもん」

「あのな…」

「テン、ジャニヒョンに何かした?あっ、もしかしてテンがトラウマなの?」


彼が顔を近づけてそう言う度に、傘がガリ、と音を立てる。下から見上げられる黒い瞳の中の瞳孔が、ぎゅっと収縮した。首の後ろに彼の冷たい両手が回されると、一気に顔面を引き寄せてくる。


「トラウマなら真正面から見なきゃ」


首の後ろに置いていた手を、ゆっくりと前へずらして頬を撫でてくる。こめかみの短い毛を親指で触り、伸びた前髪に指を通す。


「仕事はいつ終わる?ご飯作って?毎日来てよ、お金ならあげる」

「契約通りの日だけだ。…あと触るな」

「お金あげるってば」

「いらないよ」

「じゃあテンの体?」

「そういうことじゃない」


わからず屋を体現したような人間だ。
ジャニは大きな溜息をついて眉を寄せた。この状況をどう解決すればいいのか。無理矢理帰らせようたって彼は絶対に戻ってくるし、院内に置いていても自分の気が散って仕方がないし何に危害が加わるか分からない。患者の不安を煽る存在になる前にどうにかしなければ。

うんと頭を悩ませて、また溜息をつこうとした時。


「ジャニ君」


かけられた声の主に、彼の手を掴んで離させつつ距離を取った。


「院長」

「彼と仲良かったのかい?」

「…はい?」

「テン君とだよ」


白髪の交じった短髪を綺麗に整え、長らく使っているであろう四角い眼鏡の奥にある優しい垂れ目。穏やかな声で発された言葉に、思わず疑うような目線を向けながら聞き返してしまった。それは友人関係の事を問われたのに対してではなく、彼を知っていることに対してだ。
しかしテンは嬉しそうに笑って、ジャニの腕を寄せた。


「友達以上なの」

「違います」


テンの腕を無理矢理払って否定すると、院長は朗らかに笑いながら頷いた。


「彼を呼んだのは私だよ。元患者、今は客さ」

「…客?」

「ああ。新しい絵を描いて欲しくてね」


院長はそう言って、フロアの壁に飾られている大きな絵を指さした。



金色の額縁に収まるのは、



無数の花の真ん中に立つ長髪の女性と、



澄み渡る昼の青空だった。







┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈






「マジで?運命やん」


笑いを含んだ声が、冬の寒さが残る屋上に響いた。
“잠이슬”のラベルが貼られた緑色の酒瓶と缶ビールがテーブルに置かれ、その両横を囲んでいるのはジャニともう一人の男だ。既に軽く酔いが回っている彼は、相手のお悩み相談にも談笑のような軽さで言葉を返してくる。


「悠太、同じこと言ってるよ」

「誰と?」

「その」

「テンやっけ」

「うん」


海が近いからか、微かに感じる潮風の匂い。
高校の頃からの友達と仕事終わりに集まって話すのは心地がいい。父親の手だけじゃ不安で、度々母親の世話をしに実家へ帰り、それから家政婦と介護士の仕事を並行して行う慌ただしい日々から開放されるひと時だ。
悠太は片手に瓶を持ったまま言った。


「高校の時にそんなんあったん知らんかってんけど」

「言ったら茶化しただろ」

「うん、まぁ」

「…この前病院にも来たんだよ、偶然だったんだけど」

「マジで?ヤッバ〜…」


ひひ、と苦笑いをしながら酒を煽る彼を一瞥しながら、ジャニも酒を同時に煽った。悩み相談に真剣に考えられるより、軽いノリで流してくれた方が気が楽になるのも確かだ。


「何のために来てたん」

「院長と繋がりがあったらしくて、絵をね」

「絵?」

「うん」

「…え、“テン”が、絵を描いてんの?」

「そうだよ。酔いすぎだ、水飲みな」

「いやいや待って、ちょ水ええわ」


コップに入った水を軽く手で退けられると、悠太は崩れかけていた体勢を整えつつポケットから携帯を取りだした。瓶を置いて両手で文字を打つ姿を横で眺めるが、昔から何をしても様になるのは変わらないなと懐かしい気分になった。高校入学と同時に友達になってからひと時も疎遠になったことのない友達のひとり。…何かと真面目な彼に相談していれば、当時は問題なく解決出来たのだろうか。


「これ、え、お前知らん?」


懐かしい気分に駆られていたのも束の間、目の前に携帯画面をずいっと近付けられれば意識を引き戻した。


「…何これ?」

「2億で買い取られた絵。で、これが今めちゃめちゃ高額で取引されようとしてるやつ。絵本の挿絵の依頼とか壁の絵、今もずっと出ずっぱりの」


彼が指先で下にスワイプするたびに出てくる絵は、どれもこれも綺麗な見覚えのある絵。青空、夕立、女の裸、男の裸、まるで神聖なものでも見ているような気分になる。が、同時にあの男の顔がチラつくのはなぜか。

彼がゆっくりと、スワイプをした。



「…“TEN”……」



「お前に猛アプローチしてるの、多分このテンやで」












キュ、と蛇口を閉める音。
ポタ、と水の滴る音に、その上を歩く軽い足音。

カラカラと開いたアンティークな扉。
曇ったステンドグラスドアが開くと、白い濡れた素足がバスマットの上に収まった。


「…タオル」


首元まで伸びた襟足は、水に濡れて肌にへばりついている。かきあげられた前髪、綺麗な鼻、睫毛に水の乗った大きな目は、風呂上がり特有の熱を孕んでいた。
伸ばした手に渡された白いタオルで身体の水分を吸っていく。恥ずかしげなく晒されている綺麗な裸体に真っ白なバスローブが包み、細い腰に巻かれた帯をきゅ、と結んだ。


「…で?」

「絵本の挿絵の依頼、受け……る?よね?」

「イラストレーターじゃないんだけど」

「分かってるよ、でもさ」


テンは肩にかけていたタオルを相手に渡し、慌てて立ち上がる彼を気にせずに脱衣所から出た。


「何?」

「溜まってる仕事解消しないと、ヒョン」

「どうにかなるでしょ」

「何件も拒否してるんだよ、これ以上は…」

「ねえ」


部屋の入口の前で、くるっと振り返った。
ふわりとバスローブが揺れる。濡れた髪から水が飛び散った。

目前に近づく顔。
テンの細い指が、頬を強い力で掴んで引き寄せた。




「テンが雇ったのはそんなろくでなしのマネージャーなの?依頼を断るくらいして」


「でもヒョン、」


「何度も同じ仕事を寄越さないで」




頬を強く掴んでいた指を、そっと髪の毛に通す。
叱った子供をなだめるような優しさと、獲物を捕える前の鋭い空気感。




「お前ならできるでしょ?」




テンの目が、きゅ、と細まった。

最近機嫌を良くしていると思えば、あまり変わりはないようだった。不覚だ。





「ね、シャオジュナ」


プリ小説オーディオドラマ