「ぱぱ……あし、うごかない、」
その言葉を聞いた朝、
俺の胸は何かに押し潰されたみたいになった。
目が覚めた大ちゃんは、
起き上がろうとして、すぐ泣きそうな顔になった。
「いたいいたい……じゃなくて……」
「……うごかない?」
「うん。こっち、……」
右足に、触っても反応が薄い。
右手も、きゅっと握ってと言っても、
ぎこちないままだ。
看護師を呼び、検査が急いで組まれた。
恭平が病室に来たのは、その日の午後。
俺の顔を見るなり、静かに口を開いた。
「腫瘍が、脳の左半球にかなり近づいてる。
運動野に近い位置で、
圧迫されてるのが原因やと思う」
「……これ、戻るん?」
「……難しい。
進行が速いし、神経は、一度ダメージを受けると
……回復が難しいねん、」
俺は何も言えなかった。
昨日まで、歩いて、手を伸ばして、
「ぱぱ〜だっこ〜」って甘えてたあの子が、
もう、右手を上げられへん。
「見えない」って言ったのは、その翌日だった。
右側から声をかけても、反応がない。
「大ちゃん、ぱぱこっちやで。ほら、見える?」
「……こっち、ないない……?」
言いながら、大ちゃんは首を傾けて、
左目だけを使ってるようだった。
その夜、恭平とふたりきりで話した。
大ちゃんはようやく眠っていた。
今は、半分だけ力の抜けた体で、
呼吸のリズムも浅くて細い。
「……治験の話、まだ残ってる」
「聞いた。でも……」
「急がなあかん。
参加条件ギリギリなの、今だけや」
「……やめとく」
恭平の手が止まった。
ペンを握ってた指に、
少しだけ力が入ったのが見えた。
「ほんまに?」
「うん。これ以上、
大ちゃんに……無理はさせられへん」
「りゅちぇ」
「俺な、
“効く可能性がゼロじゃないなら試せ”って、
どっかで思ってた。
でも今、親として思うねん。
“生きてほしい”って気持ちよりも、
もう、“苦しまんでほしい”って気持ちの方が
……強いねん」
しばらく、恭平は何も言わんかった。
「それは、間違ってない」
ようやく、ぽつりとそう言ってくれた。
「俺がその立場やったら……同じこと言うかもしれん」
「ごめん、恭平。できること全部やってくれてること、
それは、ほんまに感謝してる」
「……ごめん、なんもできんくて。
……悔しい。」
「分かるよ。俺も、ずっと悔しい」
翌日、大ちゃんの目は、光にも反応が鈍くなった。
時々、話しかけてもぼんやりしたまま返事がない。
でも、俺の声だけには反応する。
「ぱぱ……ここ……おる?」
「おるよ。ほら、手ぇ握ってるやろ」
「……あったかい」
「うん。ずっと握ってるからな」
「……おうち、まだ?」
「うん。もうちょっとだけ、がんばろか」
がんばれ、なんて本当は言いたくない。
もう、じゅうぶん過ぎるほどがんばってるのに。
それでも、俺は“そばにいる”ことしかできへん。
病室の窓から見える夕焼けは、
どんなにきれいでも、
もう“大ちゃんと一緒に”は見れへんかもしれん。
それでも、
隣で手を握ってることが、
大ちゃんにとっての“世界全部”になってるなら、
それでええと思った。
その夜、俺は小さく声に出した。
「ありがとうな、大ちゃん」
眠ってる大ちゃんの頭をそっとなでる。
もうほとんど髪は抜けてしまった頭に、
あのニット帽をまたかぶせてやる。
「ごめんな、って思ってたけど、
それより、ありがとう、の方が大事かもしれん」
まもなく訪れる“その日”のことは、
もう誰も口に出さんかった。
でも、
俺はきっと、ちゃんと見送れる。
それは、大ちゃんが
毎日をちゃんと“生きてくれてる”から。












編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!