週刊誌が出た朝、部屋の中はいつもと変わらないはずだった。
カーテンの隙間から差し込む光も、冷蔵庫の低い音も、テーブルの上に置きっぱなしのリップも、昨日の夜と同じ場所にある。それなのに、私だけが違う場所に放り出されたみたいで、身体がうまく動かなかった。
枕元のスマホが震えるたびに、心臓が跳ねる。
通知が溜まっていくのがスマホを見なくてもわかる。
ニュースアプリの見出しも、SNSのタイムラインも、きっと瑛宜の名前で埋まっているんだろう。
開けば傷つくのはわかっているのに、開かないともっと怖くて、私は息を吸って、画面を開いた。
最初に目に入ったのは、海辺の写真だった。
モザイクがかかっているから、私の顔ははっきりわからない。それでも、胸の奥が冷たくなる。知らない人たちの視線が、紙の上からこっちに向かって伸びてくる気がして、肩がすくんだ。
コメント欄には、怒りや興味、面白がる声、全部が混ざって流れている。
私のことを特定できていないはずなのに、勝手に「こういう女だ」と決めつける文章があって、目の奥が熱くなった。
私はスマホを伏せて、キッチンへ向かった。
何かしないと、息が詰まってしまいそうだった。
コーヒーを淹れようとして、フィルターを取り出して、粉を入れて、お湯を注ぐ。普段なら当たり前にできる作業なのに、今日は手が震えて、粉が少しだけこぼれた。
それを見た瞬間、急に情けなくなった。
こんな小さなことで崩れそうになる自分が嫌だ。
私は深呼吸して、こぼれた粉を拭き取って、カップを両手で包む。温かさが手のひらに広がるのに、胸の奥だけは冷えたままだった。
やっとの思いでコーヒーを飲もうとしたそのとき、スマホがまた震えた。瑛宜からのLINEだった。
【今から公式で出す】
画面を見つめたまま、指が止まる。
公式で出す。
つまり、事実を認めるということ。
私はすぐに返信を打った。
【大丈夫なの?無理しないでね】
送信してから、言葉が足りない気がして、画面を見つめ続けた。
本当は「やめて」と言いたかった。
私のせいで、瑛宜が矢面に立つのが怖かった。
でも瑛宜は、私がやめてと言ったところで曲げないんだろう。そういう逃げ方をしない人だから。
数分後、瑛宜から公式サイトのリンクが届いた。
私は震える指でそのリンクを開く。
《MAZZEL EIKIに関するご報告》
報道内容について事実であることを認めます。
お相手は一般の方であり、プライバシー侵害となる行為はお控えください。
今後もアーティスト活動を継続し、皆さまの期待に応えられるよう努めてまいります。
淡々とした文章だった。
でも、その淡々とした文章の裏側に、どれだけの圧力と話し合いと覚悟があったのかを想像すると、胸が苦しくなった。
瑛宜は私たちの関係を、守ろうとしてくれた。それが嬉しいのに、怖かった。守ろうとするほど、瑛宜が傷つく気がして。
私はスマホを胸に押し当てて、息を吐いた。
すると、少し時間を置いて、瑛宜からまたメッセージが来た。
【今日の夜、少しだけ電話できる?】
私はすぐに返信する。
【うん。声聞きたい】
送信したあと、自分の指先がまだ震えていることに気づいた。
その夜、約束の時間になって、着信が鳴った。
瑛宜の名前を見ただけで、胸が詰まる。
「もしもし。瑛宜?」
『おつかれ』
「大丈夫?ちゃんとご飯食べた?」
『あなたこそ(笑)食べてないやろ』
「食べたよ?ちょっとだけ(笑)……瑛宜、公式のやつ、」
『うん。事務所と話して決めた。』
「……怖くなかったの?」
『怖いよ。でも、否定したら一生後悔すると思って』
言葉が優しくて、胸が痛くなった。
私のせいで瑛宜が重いものを背負っているのに、それでも瑛宜は「お前のせい」とは言わない。
その優しさが、泣きたくなるほど苦しかった。
「……私、何もできてない」
『できてる。待っててくれてるだけで充分』
「充分じゃない。瑛宜が一人で戦ってるのに」
『一人じゃないよ。あなたがいるやん』
一瞬、言葉が出なくなった。
涙が喉に詰まって、息がうまくできない。
瑛宜が少し間を置いて、続けた。
『それでさ。明日、ライブあるやん』
「うん……」
『関係者席、取った。来てほしい』
来てほしい。
その言葉が、胸の奥にじんわり広がった。でも同時に怖さも湧いた。行ったら、誰かに見られるかもしれない。騒ぎが大きくなるかもしれない。私がいることで、瑛宜の負担が増えるかもしれない。そう思ってしまって、すぐに返事ができなかった。
『来たくないなら無理しなくていい。でも、俺は……あなたに来てほしい。歌ってる俺を見てほしい』
その声が、少しだけ弱く聞こえた気がした。瑛宜が弱音を吐くのは珍しい。だからこそ、胸がきゅっと締まった。
「……行く」
『本当に?』
「うん」
『ありがとう。スタッフが案内するから、当日は言われた通りに動いて』
「わかった。……瑛宜、ちゃんと寝てね?」
『あなたもね。明日、やっと会える』
その言葉だけで、胸の奥が少しだけ軽くなった。
電話を切ったあと、私はスマホを抱えたままベッドに倒れ込んだ。
怖い。でも、行きたい。瑛宜の隣には立てなくても、瑛宜が立つ場所を、この目で見届けたい。
私は目を閉じて、深呼吸をした。
翌日、会場の裏口に着くと、スタッフが待っていた。
「あなたの名字あなた様でお間違いないでしょうか。こちらへどうぞ」
私は小さく頷いて、案内されるまま通路を歩いた。一般席とは違う静かな道。
遠くから歓声が聞こえて、心臓が跳ねた。扉の向こう側には、瑛宜を見に来た人たちがたくさんいる。瑛宜を好きな人たちがいる。そして今日、瑛宜はその人たちの前で、全部を背負ったまま歌う。
関係者席へ通され、席に着くとそこはステージがよく見える位置だった。膝の上で手を組むと、指先が冷たくなっているのがわかった。
会場が暗転すると、歓声が波みたいに押し寄せる。そして、ステージにメンバーが現れ、その中心に瑛宜はいた。
瑛宜はいつも通りの衣装で、いつも通りの顔をしていた。でも、どこか違う。
その立ち姿は、ただのアーティストじゃなくて、一人の人間としての強さが滲んで見えた。
音が鳴り、曲が始まると、ファンのペンライトが揺れて、会場全体がひとつの海みたいに光っていた。
私は息を忘れるほど見つめた。瑛宜は、ここにいる。逃げないって決めて、ここに立っている。
曲が終わるたびに歓声が上がり、会場の熱が増していく。私は関係者席で静かに手を叩きながら、ずっと瑛宜だけを追った。
ライブが進み、MCの時間が近づいていく。瑛宜が何を言うのか、私は大体わかっていた。わかっているのに、怖かった。胸の奥がぎゅっと締まって、呼吸が浅くなる。
瑛宜がマイクを握ると、会場の空気が静かに変わっていく。その瞬間、私は祈るみたいに指を絡めた。
どうか、瑛宜の言葉が届きますように。
どうか、瑛宜がひとりになりませんように。











編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!