ホテルへ戻る道は、海辺にいたときよりもずっと静かだった。
波の音は遠くなったはずなのに、耳の奥に残っていて、歩くたびにそれがついてくるような気がする。潮の匂いもまだ髪に絡みついていて、コートの袖口から指先にまで冷たさが残っていた。
瑛宜と繋いだ手だけが、やけに熱い。
「寒くない?」
「大丈夫……たぶん」
「たぶんってなに(笑)」
「寒いけど、帰りたくないっていうか」
私がそう言うと、瑛宜の指が少しだけ強く絡んだ。
帰りたくない、なんて変な言い方だ。だって帰る場所はホテルで、瑛宜と同じ部屋で、むしろ楽しみなはずなのに。なのに、口から出た言葉はまるで今日が終わってしまうのが惜しいみたいで、私は自分の気持ちがわからなくなっていた。
ホテルのロビーに入ると、外の冷たい空気とは違う、柔らかい暖房の匂いがした。照明が落ち着いた色で、床の光沢が静かに反射している。旅行客の声も少なくて、夜のロビーはどこか現実感が薄い。
エレベーターの中、鏡に映った自分の顔を見て、私は思わず視線を逸らした。
頬が赤い。
浜辺でキスされた熱が、まだ残っているみたいだった。
「あなた、顔赤い」
「寒いから」
「嘘」
「……嘘じゃないし」
「じゃあ俺のせいじゃないのね?」
「……たぶん、」
言った瞬間、恥ずかしくて俯いたのに、瑛宜は追及しない。ただ、指を絡めた手を少し持ち上げて、逃がさないように握り直してくる。その動きが当たり前みたいで、胸の奥がじわっと熱くなった。
カードキーを差し込んで部屋に入ると、空気がひんやりしていた。
照明をつけると、窓の外は真っ暗で、海は影の塊みたいに沈んでいる。昼間はあんなにきらきらしていたのに、夜になると海は色を失って、ただ深く静かにそこにあった。
でも波の音だけは、部屋の中にまで届いてくる。
「……すごいね」
「夜の海?」
「うん。暗いのに、怖くない」
「波の音のおかげかも?」
「……落ち着く。変かな?」
私がそう聞くと、瑛宜は窓の方を見たまま首を横に振った。
変じゃない、と言われるだけで安心してしまうのが悔しい。私はいつからこんなに、瑛宜の言葉ひとつに振り回されるようになったんだろう。
「あなた先、シャワー浴びてきたら?」
「……瑛宜は?」
「俺は後でいい」
「……一緒に入るって言わないんだ」
「言ったらあなた困るじゃん(笑)」
「困るけど」
「じゃあ言わない」
困るけど、なんて言ってしまった自分が恥ずかしい。
顔が熱いのはきっと暖房のせいじゃない。瑛宜の目が、私の言葉を拾って、少しだけ熱を帯びたのがわかってしまったからだ。私は逃げるようにバスルームへ入って扉を閉めた。
シャワーの音が響く中で、私は何度も深呼吸した。
落ち着いて、と思うのに、胸の奥は落ち着かない。お湯で身体が温まっても、心臓だけがずっと忙しくて、今日の夕暮れの浜辺を思い出すたび、唇の熱が蘇る。
浴衣に着替えて髪を拭きながら部屋に戻ると、瑛宜はソファに座ってスマホを見ていた。
でも私の気配に気づくと、すぐに顔を上げる。
「お、上がった?」
「うん」
「髪、まだ濡れてるやん」
「乾かすのめんどくさくて」
「座って」
「え?」
「拭く」
有無を言わせない声だったのに、乱暴じゃない。
私はベッドの端に座らされて、瑛宜の指が髪に触れる。タオルで水気を取る動きが驚くほど丁寧で、私はそれだけで背筋がぞわっとした。髪を触られているだけなのに、触れられているのはもっと深いところみたいで、身体の奥がじわじわ熱くなる。
「……瑛宜、優しい」
「優しくしたいからね〜」
「私にだけ?」
「当たり前にあなただけ」
「そういうの、ずるい」
「何が?」
「当たり前って言い方」
私は俯いたまま、膝の上で指を絡めた。
当たり前、という言葉は、私が一番欲しいものをくれる。特別だと言われるより、当たり前のように選ばれる方が安心できる。失うかもしれない怖さを、少しだけ忘れられる。
瑛宜はタオルを置いて、今度は私の肩に手を添えた。
「疲れた?」
「疲れてない」
「眠い?」
「眠くない」
「じゃあ、まだ起きてる?」
「……起きてる」
言葉を交わすたび、距離が縮まっていく気がして、私は呼吸が浅くなる。
瑛宜の指が頬に触れた瞬間、私は反射的に肩を震わせた。
「びっくりした?」
「してない」
「嘘」
「……ちょっとだけ」
「触っただけで?」
「触り方が、ずるい」
私がそう言うと、瑛宜の視線が私の唇へ落ちて、また目に戻った。
その目が、優しいのに熱を帯びていて、私は胸が苦しくなった。
「キスする?」
「……する」
「していい?」
「……うん」
唇が重なった。
昼間の浜辺のキスは風に溶けていくみたいだったのに、部屋の中のキスは逃げ道がなくて、熱が直接身体の奥へ落ちてくる。私は息が足りなくなって、瑛宜の浴衣の胸元を掴んだ。掴んだ瞬間、瑛宜の身体がほんの少し固くなるのがわかって、その反応が嬉しくて、怖かった。
唇が離れても、瑛宜は距離を取らないまま、呼吸が絡むほど近くで私を見ている。
「足りない?」
「足りないって言ったら?」
「止まれなくなる」
「……止まらなくてもいいよ」
「後悔しない?」
「しない。瑛宜がいい」
言い切った瞬間、瑛宜の腕が私の腰を抱いて、ゆっくりベッドへ押し倒す形になった。
乱暴じゃないのに、抗えないくらい自然で、私は息を呑む。上から覆いかぶさる体温が重いのに、それが安心になるのが怖かった。シーツがわずかに軋んで、部屋の静けさが余計に濃くなる。
波の音が、窓の外でずっと続いている。
寄せては返す音が、まるで私の鼓動を隠してくれているみたいだった。
「……近い」
「嫌?」
「嫌じゃない……怖いだけ」
「怖いなら止める」
「止めないで」
「……ほんとに?」
「ほんと。離れたくない」
私がそう言うと、瑛宜の唇が頬に落ちて、顎に落ちて、首筋へ移っていく。
その感覚だけで、私は息を詰まらせた。首に触れられるたび、身体が勝手に震えて、声が漏れそうになるのに、必死で堪える。恥ずかしくて、情けなくて、でも嬉しくて、全部が混ざって泣きたくなる。
「……っ、そこ……」
「弱い?」
「弱い……言わないで」
「かわいい」
「言わないでってば……」
私の抗議は全然強くなくて、むしろ甘えているみたいになってしまう。
瑛宜はそれをわかっているのか、さらにゆっくり、確かめるみたいに触れてくる。優しいのに、逃げ道がない。その優しさが、私の理性を少しずつ削っていく。
私は耐えきれなくなって、瑛宜の髪に指を絡めて引き寄せた。
「……瑛宜」
「なに」
「好き……好きすぎて、変になる」
「変になってよ」
「そんなこと言わないで……」
「言う。今のあなた、反則」
耳元で囁かれた瞬間、背筋が震えた。
反則、なんて言葉で片付けられるほど、私の中はもう落ち着いていない。欲しい、触れてほしい、離れないでほしい、そんな気持ちがどんどん溢れてきて、言葉にしないと苦しくて仕方なかった。
「……私、今、瑛宜が欲しい」
「……言わんで」
「なんで」
「止まれなくなる」
止まれなくなる、という声が低く震えていて、私はそれだけで胸の奥が熱くなる。
瑛宜も同じくらい、私に触れたいと思っている。その事実が嬉しくて、私は怖さより先に安心してしまった。
瑛宜の指先が、私の帯に触れる。
きゅ、と布が擦れる音がして、私は息を止めた。
「……瑛宜」
「ん?」
「それ、ほどくの……?」
「嫌ならやめる」
「嫌じゃない……怖いだけ」
「なら、ちゃんと俺のこと見て?」
瑛宜の視線が私の目を捕まえて、逃げさせない。
帯が少しずつ緩んでいく感覚があって、私は身体の奥が熱くなっていくのを止められなかった。布がほどける音が、波の音よりも生々しく耳に残る。
この音が、もう戻れない合図みたいで、私は胸が詰まった。
「今夜、俺に任せてくれる?」
私は瑛宜の浴衣をぎゅっと掴んで、震える息のまま頷いた。
「……うん。任せる」
「絶対、大事にする」
その言葉が胸の奥に落ちた瞬間、怖さが少しだけ溶けた。
瑛宜の唇が、もう一度深く重なって、私は目を閉じる。
波の音が、窓の外でずっと鳴っている。
寄せては返す音に包まれながら、私は瑛宜の腕の中で、甘い熱に溺れていった。











編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。