お肉のパックを選ぶ時、彼女の指先が少しだけ迷うようになった
前なら普通に買っていた、牛肉の赤身
それをそっと棚に戻して、一番安い鶏肉のパックをカゴに入れる
そういう小さな変化が、この頃いくつも増えていた
服を買わなくなった
キュレーターの制服のようにも思える、ネイビーや黒、グレーのシャツとスラックス
差し色のスカーフのバリエーションは増えない
「 散歩がマイブームなんだよね 」と言って、
遠い駅から何十分もかけて歩いて帰ってくるようになった
浮かせたはずのそのお金で、彼女は俺の新しい筆や、キャンバスを買ってきてくれる
学生なのに、寝る間も惜しんでコンペに応募して、小さな依頼料をいくつも集めて、
そうやって俺の生活を、俺の絵を、必死に支えてくれている
彼女は最近、誰もが知っているような業界の最大手から、すごい内定をもらったらしい
正式な報告は、まだされていない
共通の知り合いから聞いただけの情報
俺にその話をする時、彼女はいつもどこか言葉をはぐらかす
彼女は仕事の話をあまりしなくなった
「 今日どうだった? 」
そう聞いても
「 まあまあかな 」
と笑うだけ
自分の輝かしい未来の話が、俺のプレッシャーになると思っているのだろう
何も言わない彼女の、痛々しいほどの優しさが溢れていた
パレットナイフで、乾いた絵の具を削り落とす
削っても削っても、真っ白なキャンバスからは何も生まれない
( ..... 俺のせいだ )
俺が何も生み出せないから、
彼女の綺麗な未来を、
生活を、じわじわと削っているんだ
気づいてしまった瞬間、胸の奥が冷たく凪いだ
俺は何も言わず、シーシャバーのシフトを夜通しに増やした
薄暗いVIP席のソファは、重たい甘さの煙がいつでも淀んでいる
甘い煙がゆっくりと天井へ溜まっていく
照明は暗く時間の感覚だけが曖昧だった
「 ヒョンジンくん、今日こっち座ってよ 」
「 はい 」
呼び止められて、自然に隣へ腰を下ろす
氷を入れて、酒を注いで、相手の話を聞く
笑う
頷く
相槌を打つ
それも全部、仕事だった
「 相変わらず優しいねぇ 」
肩を軽く叩かれる
笑って返す
「 ありがとうございます 」
腕へ手が伸びる
そのまま袖を掴まれる
少し距離が近付く
以前なら、そこで自然に立ち上がっていた
でも今日は違った
そのまま座っている
「 手、冷たいね 」
細い指先が俺の手に重なる
逃げなかった
逃げる理由も無かった
俺はその手を、そっと包み返した
「 外、雨だったから 」
耳元でそう言うと、客は嬉しそうに笑う
握った手を離さないまま今度は指先がゆっくりと手首を撫でた
袖口へ触れる
少しだけ境界線が曖昧になる
何も思わなかった
嫌でもない
嬉しくもない
ただ
「 接待だから 」
それだけだった
身体だけ置いて心はもうあの部屋へ帰っていた
白いキャンバス
散らかった絵の具
朝のコーヒーの匂い
トースターの音
彼女の
「 おはよう 」
「 …… ヒョンジンくん 」
袖を引かれて意識が戻る
不自然に艶のある唇が何かを話している
俺は柔らかく笑った
「 .... ん? 聞いてますよ 」
彼女におはようを言う時と
全く同じ優しいトーンで、俺は微笑み返した












編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。