それから、一か月が過ぎた。
朝起きて、薬を飲む。
学校へ行く。
笑って、話して、帰ってくる。
そんな日々が続いていた。
驚くほど、普通だった。
◇
祖父のことを思い出さないわけではない。
ふとした瞬間に、声や笑顔が浮かぶ。
でも、そのたびに胸を締めつけていた痛みは、もうほとんどなかった。
懐かしい。
それだけだ。
俺はそれを「回復」と呼ぶべきなのか、まだ決められずにいた。
◇
十月の終わり、学校で文化祭の準備が始まった。
教室は珍しく少し騒がしかった。
「透、ポスターお願い!」
「いいよ」
自分でも驚くくらい、自然に返事ができた。
以前より人と話すのが楽になった気がする。
イライラしない。
不安も少ない。
頭の中が静かだ。
佐伯が笑いながら言う。
「なんか最近、普通になったよな」
普通。
またその言葉だ。
俺は少し笑って、
「そうかも」
と答えた。
その返事に、引っかかりはなかった。
◇
放課後、駅前を歩く。
夕暮れの光が街を染めている。
大型モニターには、いつもの広告。
『近いうち、あなたは幸せになれる』
俺は立ち止まらなかった。
以前なら、あの言葉の意味を考えていた。
今は、ただの広告にしか見えない。
広場では子どもたちが遊んでいる。
親たちが笑って見守っている。
穏やかな光景。
その中に、一人の小さな女の子がいた。
転んだらしい。
膝を押さえて、顔をしかめている。
母親が駆け寄る。
バッグから小さなケースを取り出す。
ピンク色のカプセル。
その光景を見た瞬間、何かが胸の奥で揺れた。
遠い記憶。
いつか、同じ場面を見た気がする。
そのとき自分は、何を感じていたんだっけ。
女の子は薬を飲む。
数秒後、表情がやわらぐ。
母親が安心したように笑う。
周囲の人々も微笑む。
俺はその光景を見つめた。
そして、ふと思った。
____よかった。
それだけだった。
胸のざわつきは、もう戻ってこなかった。
◇
帰宅すると、母さんが夕飯を作っていた。
「おかえり」
「ただいま」
「今日、スーパーでおばあちゃんに会ったのよ」
「元気だった?」
「うん。透が最近落ち着いてるって、安心してた」
俺は箸を取りながら、
「そう」
と答えた。
母さんは少し嬉しそうに笑った。
「よかった」
その笑顔を見て、俺も小さく笑った。
本当に、よかったのかもしれない。
少なくとも、母さんは安心している。
祖母も安心している。
先生も、きっとそうだ。
みんなが望んでいたのは、こういう俺だったのだろう。
◇
食後、自室に戻る。
机の引き出しを開ける。
整然と並んだハピネス。
残り少なくなったシートを取り出す。
一粒を指先でつまむ。
もう迷いはなかった。
水を飲む。
喉を通る。
静かだ。
本当に静かだ。
◇
机の上には、祖父のアルバムが置かれていた。
久しぶりに開いてみる。
海辺で笑う祖父。
怒っている祖父。
泣いている祖父。
写真を見つめる。
以前は、このページを開くだけで胸が痛んだ。
今は違う。
懐かしい。
少し面白い。
そんな感想しか浮かばない。
俺はページをめくる。
祖父が泣いている写真で、手が止まった。
どうして泣いていたんだっけ。
曾祖父の葬式。
そうだ。
大切な人を失ったからだ。
そのことは理解できる。
でも、その涙の重さが分からない。
悲しみの輪郭だけが残っていて、中身が空っぽになっている。
俺はしばらく写真を見つめた。
そして、アルバムを閉じた。
◇
窓を開ける。
夜風が入ってくる。
向かいのマンションから笑い声が聞こえた。
穏やかな声。
優しい笑い。
どこにでもある、幸せな音。
俺はその声を聞きながら、ベッドに腰を下ろす。
不思議と、何も苦しくない。
祖父の死も。
あの日の涙も。
遠い夢みたいだった。
スマホが震える。
ニュース通知。
『感情安定薬ハピネス、導入11年目へ 国民幸福度は過去最高を更新』
俺は画面を閉じる。
暗い窓に、自分の顔が映っていた。
穏やかな顔だった。
少しだけ笑っている。
その表情を見て、ふと思う。
これが幸福なのだろうか。
答えは分からない。
でも、その問いに強くこだわる気持ちも、もう薄れていた。
俺はベッドに横になる。
天井を見上げる。
静かな部屋。
静かな心。
そして、静かな世界。
街には今日も笑顔が溢れていた。
誰も怒らない。
誰も泣かない。
誰も絶望しない。
たぶん、それで正しいのだと思う。
そう思いながら、俺は目を閉じた。
そして最後まで、自分が何を失ったのかだけは、思い出せなかった。












編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!