第5話

誰も泣けない世界
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2026/07/30 01:29 更新

 それから、一か月が過ぎた。

 朝起きて、薬を飲む。

 学校へ行く。

 笑って、話して、帰ってくる。

 そんな日々が続いていた。

 驚くほど、普通だった。

     ◇

 祖父のことを思い出さないわけではない。

 ふとした瞬間に、声や笑顔が浮かぶ。

 でも、そのたびに胸を締めつけていた痛みは、もうほとんどなかった。

 懐かしい。

 それだけだ。

 俺はそれを「回復」と呼ぶべきなのか、まだ決められずにいた。

     ◇

 十月の終わり、学校で文化祭の準備が始まった。

 教室は珍しく少し騒がしかった。

「透、ポスターお願い!」

「いいよ」

 自分でも驚くくらい、自然に返事ができた。

 以前より人と話すのが楽になった気がする。

 イライラしない。

 不安も少ない。

 頭の中が静かだ。

 佐伯が笑いながら言う。

「なんか最近、普通になったよな」

 普通。

 またその言葉だ。

 俺は少し笑って、

「そうかも」

と答えた。

 その返事に、引っかかりはなかった。

     ◇

 放課後、駅前を歩く。

 夕暮れの光が街を染めている。

 大型モニターには、いつもの広告。

『近いうち、あなたは幸せになれる』

 俺は立ち止まらなかった。

 以前なら、あの言葉の意味を考えていた。

 今は、ただの広告にしか見えない。

 広場では子どもたちが遊んでいる。

 親たちが笑って見守っている。

 穏やかな光景。

 その中に、一人の小さな女の子がいた。

 転んだらしい。

 膝を押さえて、顔をしかめている。

 母親が駆け寄る。

 バッグから小さなケースを取り出す。

 ピンク色のカプセル。

 その光景を見た瞬間、何かが胸の奥で揺れた。

 遠い記憶。

 いつか、同じ場面を見た気がする。

 そのとき自分は、何を感じていたんだっけ。

 女の子は薬を飲む。

 数秒後、表情がやわらぐ。

 母親が安心したように笑う。

 周囲の人々も微笑む。

 俺はその光景を見つめた。

 そして、ふと思った。

 ____よかった。

 それだけだった。

 胸のざわつきは、もう戻ってこなかった。

     ◇

 帰宅すると、母さんが夕飯を作っていた。

「おかえり」

「ただいま」

「今日、スーパーでおばあちゃんに会ったのよ」

「元気だった?」

「うん。透が最近落ち着いてるって、安心してた」

 俺は箸を取りながら、

「そう」

と答えた。

 母さんは少し嬉しそうに笑った。

「よかった」

 その笑顔を見て、俺も小さく笑った。

 本当に、よかったのかもしれない。

 少なくとも、母さんは安心している。

 祖母も安心している。

 先生も、きっとそうだ。

 みんなが望んでいたのは、こういう俺だったのだろう。

     ◇

 食後、自室に戻る。

 机の引き出しを開ける。

 整然と並んだハピネス。

 残り少なくなったシートを取り出す。

 一粒を指先でつまむ。

 もう迷いはなかった。

 水を飲む。

 喉を通る。

 静かだ。

 本当に静かだ。

     ◇

 机の上には、祖父のアルバムが置かれていた。

 久しぶりに開いてみる。

 海辺で笑う祖父。

 怒っている祖父。

 泣いている祖父。

 写真を見つめる。

 以前は、このページを開くだけで胸が痛んだ。

 今は違う。

 懐かしい。

 少し面白い。

 そんな感想しか浮かばない。

 俺はページをめくる。

 祖父が泣いている写真で、手が止まった。

 どうして泣いていたんだっけ。

 曾祖父の葬式。

 そうだ。

 大切な人を失ったからだ。

 そのことは理解できる。

 でも、その涙の重さが分からない。

 悲しみの輪郭だけが残っていて、中身が空っぽになっている。

 俺はしばらく写真を見つめた。

 そして、アルバムを閉じた。

     ◇

 窓を開ける。

 夜風が入ってくる。

 向かいのマンションから笑い声が聞こえた。

 穏やかな声。

 優しい笑い。

 どこにでもある、幸せな音。

 俺はその声を聞きながら、ベッドに腰を下ろす。

 不思議と、何も苦しくない。

 祖父の死も。

 あの日の涙も。

 遠い夢みたいだった。

 スマホが震える。

 ニュース通知。

『感情安定薬ハピネス、導入11年目へ 国民幸福度は過去最高を更新』

 俺は画面を閉じる。

 暗い窓に、自分の顔が映っていた。

 穏やかな顔だった。

 少しだけ笑っている。

 その表情を見て、ふと思う。

 これが幸福なのだろうか。

 答えは分からない。

 でも、その問いに強くこだわる気持ちも、もう薄れていた。

 俺はベッドに横になる。

 天井を見上げる。

 静かな部屋。

 静かな心。

 そして、静かな世界。

 街には今日も笑顔が溢れていた。

 誰も怒らない。

 誰も泣かない。

 誰も絶望しない。

 たぶん、それで正しいのだと思う。

 そう思いながら、俺は目を閉じた。

 そして最後まで、自分が何を失ったのかだけは、思い出せなかった。

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