第6話

#4 兄の背中、私の教室
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2026/01/07 11:06 更新
朝の病室は、いつもより少しだけ賑やかだった。窓際に置かれた加湿器が、しゅうしゅうと白い息を吐いている。私はその音を聞きながら、自分の胸にも似たような息苦しさが残っていることを感じていた。昨夜はよく眠れず、何度も寝返りを打ったせいでシーツがくしゃくしゃだ。
あっきぃ
あっきぃ
あなた!体調チェックするよ!
あっきぃ
あっきぃ
熱は平熱、脈も大きな問題無し!
(なまえ)
あなた
ありがとう、ちょっとだけ胸が重いかな
あっきぃは明るい声で私を励ましてくれる。運動好きでエネルギッシュな人だけど、病室ではとても丁寧だ。次に入ってきたのは、手続き係のぷりっつ。カルテを軽く持ち上げてページをめくる。
ぷりっつ
ぷりっつ
外出の条件を確認するぞ、
ぷりっつ
ぷりっつ
無理はしない、苦しくなったらすぐ戻る
ぷりっつ
ぷりっつ
それでいいな?
(なまえ)
あなた
うん、守れるよ
ぷりっつの言葉は少しきつく聞こえる時もある。でもそのきつさは、私のことを心配している証拠だと知っている。まぜ太は私の検査を担当する人で、柔らかく笑った。
まぜ太
まぜ太
今日は学校へ行く前の練習日だね
まぜ太
まぜ太
自由に楽しんで、でも自分の限界だけは忘れないで
ころん
ころん
最終的な判断は僕がする
ころん
ころん
数値は安定しているからゆっくり行くなら許可できる
お兄ちゃんの声を聞いた瞬間、私はほっとした。病院の匂いも、モニターの点滅も、全部が“行っていいよ”と言ってくれている気がする。私は制服の写真をカバンに入れた。お兄ちゃんが医師としてだけでなく、お兄ちゃんとして私の背中を支えてくれる一日が始まる。

あなた(心)
(今日は逃げない)
(自分で決めた登校)
校門をくぐると、冷たい風が頬を撫でた。病院ではできる深い呼吸が、学校ではどうしても浅くなる。私は教室のドアの前で立ち止まり、カードをもう一度確かめた。帰るボタンは使わないと決めた日。

席へ向かう通路で、三人の声がすぐに飛んでくる。
萌莉
萌莉
ねぇ見て、ほんとに来たよ
宝愛瑠
宝愛瑠
今日も午前だけの病弱ちゃんw
姫子
姫子
倒れたら迷惑だからやめてほしいよね
私は椅子に座り、ノートを開いた。開いたページが盾になると信じて。
〜1時間目 数学〜

黒板の数字は優しいのに、人の言葉はどうしてこんなに難しいんだろう。
けちゃ
けちゃ
あなたの名字さん、無理せずね
(なまえ)
あなた
はい

でも後ろからまたヒソヒソ。
宝愛瑠
宝愛瑠
ゆっくりしかできないんでしょw
萌莉
萌莉
問題解けないのに来る意味ある?w
姫子
姫子
薬の時間が授業みたい
胸が少しだけ苦しい。私はペン先で丸を描き、呼吸を数える。数字は一、二、三。紙の上でだけ心は落ち着く。

あなた(心)
(計算は好き)
(好きが曇る)
〜2時間目 体育見学〜
校庭の砂は甘い匂いなのに、私はベンチの上でただ見るだけ。
萌莉
萌莉
見学って楽しい?
宝愛瑠
宝愛瑠
運動好きとか言ってたよね
宝愛瑠
宝愛瑠
走れないのに矛盾
姫子
姫子
ここは元気な人の場所だよ
ボールが転がってきても、姫子が先に拾って遠くへ投げた。私はその遠さを目で追う。追っても届かない。

あなた(心)
(昔は走れた)
(好きは過去?)
〜3時間目 社会〜

先生はモノカルチャー経済の説明をしていた。一次産品、農業、発電の話。私はノートの記憶をたどりながら聞く。

その時、宝愛瑠が小さく笑って言った。
宝愛瑠
宝愛瑠
モノカルチャーは可哀想経済?
萌莉
萌莉
ぴったり!あなたの名字のことじゃん!
姫子
姫子
可哀想を輸出してる人だww
私はその言葉に気づかないふりをした。気づかないふりをしていたのに、頬に流れる涙には自分でも気づかなかった。
(なまえ)
あなた
え、私、泣いてたんだ……
ハンカチを取りに視聴覚室へ向かった。
〜昼休みの廊下〜

お弁当の黄色と茶色。私は廊下の端へ移動する。
宝愛瑠
宝愛瑠
あのさぁ、ここで食べないで?
萌莉
萌莉
同じ空気にいるのが無理なんだよね
姫子
姫子
午後には帰るんでしょ?外で食べな?
箸は進まない。喉は細いストローで、息は短い階段をのぼる。私はカードを見て、逃げないと決めた自分にしがみついた。

あなた(心)
(食べたいだけ)
(普通に帰りたいだけ)
〜放課後〜

チャイムが鳴り終わると、3人が私の前に立った。
宝愛瑠
宝愛瑠
話あるから、視聴覚室来て
萌莉
萌莉
逃げない日なんでしょ?
姫子
姫子
ちゃんと来てね
〜視聴覚室にて〜

蛍光灯が昼より白くて、私の影だけが濃かった。

室内の机の上に、私物が散らばる。声は冷たいリボン。

萌莉
萌莉
なんで学校来るの?
宝愛瑠
宝愛瑠
心配でもされたいわけ?
姫子
姫子
泣けばなんでも許されると思ってる?
私は言い返せなかった
萌莉
萌莉
ノート広げて真面目アピール?
宝愛瑠
宝愛瑠
先生のお気に入りだもんね、ずるいよ
姫子
姫子
モノカルチャーは可哀想経済?って授業中に言ってたけど、
姫子
姫子
あなたの名字って可哀想しかない単品だよね
言葉が、机の角で反射して全部こっちに向かってくる。
私は唇をかんでいた。声を出したら壊れそうで。
(なまえ)
あなた
…………やめてよ
自分の声が、思ったより小さくて驚いた。
その時だった。

ドアが、コン、と短く鳴った。
ころん
ころん
───失礼します
教室の空気が一瞬だけ止まる。
お兄ちゃんは私を見つけると、すぐに三人の前へ歩いた。靴音がまっすぐで、迷いがない。
宝愛瑠
宝愛瑠
だ、誰?
萌莉
萌莉
関係ない人は出てってください
姫子
姫子
大人連れてくるとか反則なんですけど
お兄ちゃんは怒鳴らなかった。
でも、低い声が床より硬い。
ころん
ころん
関係なくない、あなたの名字あなたの保護者代理
ころん
ころん
今本人がやめてと言ったの聞こえたよな?
私はそこで初めて、胸いっぱいに息を吸った。
お兄ちゃんが来た――その事実だけで、視界がにじむ。
ころん
ころん
話は病院側にも共有するから
ころん
ころん
君たちの名前も、宝愛瑠、姫子、萌莉で合ってるな?
三人は顔を見合わせ、姫子が舌だけ出した。
姫子
姫子
ちょっと言い過ぎただけだし?
ころん
ころん
言い過ぎかどうかは本人が決めるんだ
ころん
ころん
泣いてるのも気づいてないみたいだけど
え?
言われて頬を触ると、指が濡れた。
(なまえ)
あなた
ほんとだ、私泣いてたんだ……
気づかないうちにこぼれていた涙が、いまははっきり熱い。お兄ちゃんは私の肩の高さまでしゃがむ。
ころん
ころん
よく耐えたね
その一言で私は声を失くして泣いた。やりすぎなくらい、子どもみたいに。
病院の裏口。
自転車置き場の横で、三人が待っていた。もう顔合わせ済みの仲良し距離だから、“おかえり”って感じ。
あっきぃ
あっきぃ
あなた!大丈夫だった?
まぜ太
まぜ太
学校の空気、きつかったな
ぷりっつ
ぷりっつ
ころんくん、ナイス保護者モード

お兄ちゃんは肩をくすめ、
ころん
ころん
僕の笑顔、最強の薬ってことで
四人のやり取りを聞きながら、私はやっと深呼吸三回。
泣きそうになったら三回って約束を、ここで守れた。
夕焼けが、病院の窓をオレンジジュースに変える。
私はベッドへ戻り、ノートにこう書いた。

“単品じゃない。私はいろんな気持ちの詰め合わせ。”

お兄ちゃんの背中を見ながら、
今日の涙の名前を、そっと覚えた。

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