朝の病室は、いつもより少しだけ賑やかだった。窓際に置かれた加湿器が、しゅうしゅうと白い息を吐いている。私はその音を聞きながら、自分の胸にも似たような息苦しさが残っていることを感じていた。昨夜はよく眠れず、何度も寝返りを打ったせいでシーツがくしゃくしゃだ。
あっきぃは明るい声で私を励ましてくれる。運動好きでエネルギッシュな人だけど、病室ではとても丁寧だ。次に入ってきたのは、手続き係のぷりっつ。カルテを軽く持ち上げてページをめくる。
ぷりっつの言葉は少しきつく聞こえる時もある。でもそのきつさは、私のことを心配している証拠だと知っている。まぜ太は私の検査を担当する人で、柔らかく笑った。
お兄ちゃんの声を聞いた瞬間、私はほっとした。病院の匂いも、モニターの点滅も、全部が“行っていいよ”と言ってくれている気がする。私は制服の写真をカバンに入れた。お兄ちゃんが医師としてだけでなく、お兄ちゃんとして私の背中を支えてくれる一日が始まる。
あなた(心)
(今日は逃げない)
(自分で決めた登校)
校門をくぐると、冷たい風が頬を撫でた。病院ではできる深い呼吸が、学校ではどうしても浅くなる。私は教室のドアの前で立ち止まり、カードをもう一度確かめた。帰るボタンは使わないと決めた日。
席へ向かう通路で、三人の声がすぐに飛んでくる。
私は椅子に座り、ノートを開いた。開いたページが盾になると信じて。
〜1時間目 数学〜
黒板の数字は優しいのに、人の言葉はどうしてこんなに難しいんだろう。
でも後ろからまたヒソヒソ。
胸が少しだけ苦しい。私はペン先で丸を描き、呼吸を数える。数字は一、二、三。紙の上でだけ心は落ち着く。
あなた(心)
(計算は好き)
(好きが曇る)
〜2時間目 体育見学〜
校庭の砂は甘い匂いなのに、私はベンチの上でただ見るだけ。
ボールが転がってきても、姫子が先に拾って遠くへ投げた。私はその遠さを目で追う。追っても届かない。
あなた(心)
(昔は走れた)
(好きは過去?)
〜3時間目 社会〜
先生はモノカルチャー経済の説明をしていた。一次産品、農業、発電の話。私はノートの記憶をたどりながら聞く。
その時、宝愛瑠が小さく笑って言った。
私はその言葉に気づかないふりをした。気づかないふりをしていたのに、頬に流れる涙には自分でも気づかなかった。
ハンカチを取りに視聴覚室へ向かった。
〜昼休みの廊下〜
お弁当の黄色と茶色。私は廊下の端へ移動する。
箸は進まない。喉は細いストローで、息は短い階段をのぼる。私はカードを見て、逃げないと決めた自分にしがみついた。
あなた(心)
(食べたいだけ)
(普通に帰りたいだけ)
〜放課後〜
チャイムが鳴り終わると、3人が私の前に立った。
〜視聴覚室にて〜
蛍光灯が昼より白くて、私の影だけが濃かった。
室内の机の上に、私物が散らばる。声は冷たいリボン。
私は言い返せなかった
言葉が、机の角で反射して全部こっちに向かってくる。
私は唇をかんでいた。声を出したら壊れそうで。
自分の声が、思ったより小さくて驚いた。
その時だった。
ドアが、コン、と短く鳴った。
教室の空気が一瞬だけ止まる。
お兄ちゃんは私を見つけると、すぐに三人の前へ歩いた。靴音がまっすぐで、迷いがない。
お兄ちゃんは怒鳴らなかった。
でも、低い声が床より硬い。
私はそこで初めて、胸いっぱいに息を吸った。
お兄ちゃんが来た――その事実だけで、視界がにじむ。
三人は顔を見合わせ、姫子が舌だけ出した。
え?
言われて頬を触ると、指が濡れた。
気づかないうちにこぼれていた涙が、いまははっきり熱い。お兄ちゃんは私の肩の高さまでしゃがむ。
その一言で私は声を失くして泣いた。やりすぎなくらい、子どもみたいに。
病院の裏口。
自転車置き場の横で、三人が待っていた。もう顔合わせ済みの仲良し距離だから、“おかえり”って感じ。
お兄ちゃんは肩をくすめ、
四人のやり取りを聞きながら、私はやっと深呼吸三回。
泣きそうになったら三回って約束を、ここで守れた。
夕焼けが、病院の窓をオレンジジュースに変える。
私はベッドへ戻り、ノートにこう書いた。
“単品じゃない。私はいろんな気持ちの詰め合わせ。”
お兄ちゃんの背中を見ながら、
今日の涙の名前を、そっと覚えた。





















編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。