⚠バッドエンド
流血表現・人がタヒぬ表現あり
薄暗い楽屋の隅で、俺は自分の頭を強く抱え込み、必死に襲いかかる熱を耐えていた。
身体の奥底から湧き上がる、どす黒く、冷たい何か。
最近巷を騒がせている不吉なアレが、ついに俺の身体にも現れ始めていた。
大切な人の血を目にした瞬間、その相手を「自分の手で殺したい」という狂気的な衝動に突き動かされてしまう病。
発症すると、人間のそれとは思えないほど、瞳が真っ赤な血の色へと変化する。
そして、この悍ましい衝動を完全に終わらせるための唯一の治療法は――『その大切な人を、本当に殺すこと』だけ。
静かにドアが開き、聞き慣れた温かい声が響いた。
奨くんだ。いつも誰よりも俺の変化に敏感で、優しく包み込んでくれる、俺の、世界で一番大切な人。
俺は顔を伏せたまま、掠れた声で拒絶した。
まだ大丈夫だ。彼の血を見てさえいなければ、俺の理性は保たれる。
彼を傷つける前に、遠ざけなければいけない。
けれど、奨くんは俺の異変を察して、躊躇うことなく足を進めてきた。
「そんなに苦しそうなのに、置いていけるわけないだろ」と、俺の肩に優しく大きな手を伸ばす。
その時だった。
焦って奨くんの手を振り払おうとした俺の指先が、彼の着ていた衣装の硬いブローチに強く引っかかった。
短い服の擦れる音のあと、奨くんの指先から、ぷつりと赤い液体が染み出した。ほんの小さな、かすり傷。
だけど、その鮮やかな「赤」が俺の視界に飛び込んできた瞬間、脳内のすべての回路が焼き切れるような衝撃が走った。
ドクン、と心臓が跳ね上がる。
視界が急速に赤く染まり始める。
同時に、胸の奥からドロドロとした狂気が溢れ出した。
さっきまでの恐怖や理性は一瞬で消え去り、ただ強烈な“殺意”だけが俺の身体を支配する。
俺は獣のような力で奨くんを床に押し倒し、その首元に両手をかけた。
奨くんが驚きに目を見開く。その瞳に映る俺の目は、完全に真っ赤に染まっていた。
首を絞める俺の手に力がこもる。
本気で殺そうとしている俺の狂気を前にして、奨くんは抵抗するのをやめ、ただ悲しそうに、でもどこまでも愛おしそうに俺の顔を見つめた。
奨くんは苦しい息の中で、優しく微笑んだ。
彼は知っていたのだ。この病気のことも、俺の瞳が赤くなった理由も。
そして、俺にとっての「大切な人」が、自分であるということも。
大きな手が、俺の頬をそっと包み込む。
その手の温もりが肌に触れた瞬間、狂気に染まっていた俺の胸の奥に、激しい痛みが走った。
殺したいという強烈な衝動の裏側で、俺の本心が「嫌だ」と悲鳴を上げる。
治療法は彼を殺すこと。だけど、そんな方法で治った世界に、俺の生きる意味なんて一ミリもない。
俺は弾かれたように奨くんの首から手を引き、自分の頭を抱えてのたうち回った。
瞳はまだ真っ赤に染まったまま、殺意と愛が脳内で激しく衝突し、精神が引き裂かれそうになる。
奨くんは床にうずくまる俺を、背後から強く、強く抱きしめた。
彼の指先からは、もう血が流れていなかった。けれど狂気は収まらなかった。
涙がボロボロと溢れ、赤い視界を滲ませる。
けれど、奨くんは俺の身体を絶対に離そうとはしなかった。
耳元で響く、切ないほどに優しい声。
消えない殺意の衝動に怯えながら、俺は彼の温かい胸の中で、声を上げて泣いた。
どれだけ強く抱きしめられても、脳裏を焼き尽くすような殺意の衝動は消えてくれなかった。
それどころか、奨くんの首元に回した俺の手は、本能のままに再び力を込めていく。
奨くんの顔から血の気が引き、苦しげに歪んでいく。
俺を包んでいた大きな手の力が、だんだんと弱まっていくのが分かった。
頭の片隅で、本当の俺が必死に叫んでいる。
だけど、真っ赤に染まった視界の中で身体はただ、冷酷な治療法を完遂するためだけに動き続けていた。
愛しているから殺したい。大切だから壊したい。
病気がもたらす歪んだ因果が、俺の理性を完全にすり潰していく。
やがて、床にへたり込んだ奨くんの身体から、完全に力が抜けた。
すとん、と大きな手が床に落ちる。
その瞬間、視界を覆っていたどす黒い赤が、嘘のように引いていった。
瞳の色が元の輝きを取り戻していく。
身体を支配していたあの悍ましい衝動も、綺麗さっぱり消え去っていた。
病気は「完治」したのだ。――世界で一番大切な人の命と引き換えに。
静まり返った楽屋で、俺は冷たくなり始めた彼の身体を激しく揺さぶった。
だけど、いつも優しく俺の名前を呼んでくれたあの声が二度と戻ってくることはない。
治療法に従って狂気から解放された俺に残されたのは、自分の手で最愛の人の未来を永遠に奪ってしまったという、絶望だけの世界だった。
俺は息をしていない奨くんの胸に顔をうずめ、誰もいない部屋で、枯れることのない涙を流し続けた。












編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!