前の話
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――午後三時の陽光が、ガラス窓から柔らかく差し込む静かなカフェ。
木のテーブルに反射する光が、琥白のたくましい手の甲を照らしていた。
「……今度、その……ミヤマクワガタが羽化したんだ」
そう切り出した琥白の声は、いつになく控えめだった。彼の腕は日焼けし、鍛えられた筋肉がシャツの袖を押し上げている。だが、琳凰の反応をうかがうような目は、まるで迷子の少年のようだった。
カウンターの奥から、琳凰がぎこちなく笑う。
「そ、そう…。よかったね、うん」
彼女の手の中には、いつものように繊細なラテアートが施されたカフェラテ。だがその指は、ほんの少し震えていた。虫の話題が来るのは分かっていた——来ないわけがない。それでも、彼の来訪を断れなかったのは、カフェラテの香りと同じくらい、彼の存在がもう日常に混ざってしまっていたから。
「……見てみたい?」
「絶ッッ対に嫌!!」
声が跳ねた。店内にいた他の客がチラリと視線を向けたが、ふたりは気にする様子もない。琳凰は顔をしかめて、怖がりながらも正直だった。
「……うん。そこだけはぶれないね、琳凰」
琥白がかすかに笑った。彼の笑顔は、岩のような顔に不釣り合いなほどあどけなかった。その顔を見ると、琳凰はギュッとラテのカップを持ち直した。
「ちょっとずつ、克服…とかはあると思うけど。いきなりクワガタとか、無理なの。命に関わる……精神的に」
「じゃあ、ダンゴムシから始めるか?」
「ばっっかじゃないの!? もっと無理だよ!!」
店内に笑い声が広がる。笑ったのは、ふたりだけだったが、それで十分だった。
琥白がそっとテーブルの中央にポンと何かを置いた。
「これ。虫じゃないから、安心して見て」
琳凰は警戒しつつも覗きこむ。小さな銀のペンダントトップ。羽を広げる蝶の形。だが作りは繊細で、まるで虫とは思えないほど装飾的だった。
「……なにこれ」
「お守り。虫と向き合えるように――ってのは建前で。実は、あんた用の“間接的謝罪の印”」
琳凰はクスリと笑ってから、カップを口に運ぶ。
「ありがと。でも、やっぱムリなもんはムリだからね? クワガタ持ってきたら即出禁だから」
「あはは、怖い」
ここには、虫は持ち込めない。
だが、虫好きの男と、虫嫌いのカフェ店主のあいだには――少しずつだが確かな何かが、育ちつつあった。
それは虫のように小さく、カフェラテの泡のように儚いけど、確かだった。












編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!