コツコツ、と静まり返った博物館を歩く。
閉館間際のほとんど客のいないフロアに
革靴の踵の音が寂しく反響する。
壁際やフロアの中心に置かれた美術品や
出土品の脇を通り抜け、
目当ての展示フロアへと進んだ。
そのフロアへ足を踏み入れると、
予想していた通り先客の姿はなかった。
薄暗い中、ライトアップされたアヌビス像や
石碑などの遺品だけが、僕を待っていたかのように
静かに佇んでいた。
僕にじっと視線を向ける神々たちには目もくれず、
足早に目的の展示コーナーまで進んでいく。
【アンクネジェブ伝説】と書かれた
パネルが並ぶそこは、ウェブサイトで事前に
確認していたよりもこじんまりとしていた。
展示物はほとんどなく、説明のパネル展示だけが
ひっそりと壁に並んでいる。
──なんだ、護符のレプリカはないのか。
少し残念に思いながらもせっかく来たのだから、と
パネルに目を通す。
もうすでに知っている内容しか書かれていない
「アンクネジェブ伝説」のパネルを読んでいると、
不意に背後に人の気配を感じて振り返った。
小声でそう謝る小柄な女性は
黒いワンピースを身に纏っていて、
胸元には金色の重厚感のある名札が、
寸分の狂いもなく水平についていた。
そこには黒い文字で「あなたのあなたの名字 愛」と書かれている。
おそらく、この博物館の学芸員なのだろう。
彼女と目が合い、反射的に帽子を深く被ろうと
前頭部に手を伸ばしたが、あいにく今日は
顔を隠すための帽子をかぶって来ていない。
行き場を失った手のやり場に困り、
前髪を整えるフリをするしかなかった。
焦りを取り繕うように尋ねると、
彼女は優しく微笑んだ。
そう言ってその場から離れようとする彼女を
咄嗟に呼び止めた。
彼女は驚いた顔で僕を振り返った。
だけどおそらく、彼女よりも
僕の方が驚いた顔をしていたと思う。
思わず彼女のことを呼び止めてしまったけれど、
自分でも何故、彼女を呼び止めたのかわからなかった。
ただ、なんとなく、彼女にはまだ何か尋ねなければ
いけないことがあるような気がした。
……しかし、そんなものは、初対面の彼女に対して
あるはずがない。
不思議そうに僕を見つめている彼女の視線に気づいて
慌てて言葉を探す。
僕の言葉に彼女は少し驚いたように目を丸くして、
すぐに表情を緩めた。
そのとき、彼女の首元で揺れる緑の宝石がついた
華奢なネックレスが、きらりと瞬いたような気がした。
そう言って、にこやかにまっすぐと僕を見つめ返す
彼女の瞳に見覚えがあるような気がして記憶を辿る。
しかし、特に思い当たる人はいなかった。
仕事柄、短期間に大勢の人と顔を合わせる。
きっとその中の1人、なのだろう。
見覚えがあるのに覚えていなくても不思議ではない。
そうわかっていても、なぜか僕を見つめるその瞳から
目を離すことができなかった。
「他にもなにか教えてほしい」
なんてとっさに口走ってしまったけれど、
あれは彼女を引き止めるための口実で、意味はない。
だから、曖昧な言葉を得意の笑顔で包み隠す。
彼女の言葉で、護符の存在を思い出す。
それは、アンクネジェブという王が存在した証──。
そこまで言った時、彼女の瞳が「あ!」と
何かを思い出したように丸くなり、
そしてすぐに気まずそうに伏せられた。
彼女のその歯切れの悪い言い方が
少し気になったけれど、それには触れずに
「へえ、そうなんですね」と相づちを打った。
さっきまでの気まずそうな雰囲気から一転、
彼女の瞳にキラリと光が戻った。
もちろん知っている。
日本で大きなエジプトの特別展が始まるにあたり、
そのPRも兼ねて上映されるのが、
僕が主演を務める「アンクネジェブ伝説」だ。
そこでは彼女が言ったとおり、
“本物の護符とされているもの”が
日本で初めて展示される。
今回のエジプト展の目玉展示だ。
情報源を明らかにせず、曖昧に返答をする。
この業界にいると、まだ一般公開されていない
情報を知り得ることも多いため、
必要以上に話しすぎてしまわないように気を使う。
ましてや今回は自分の仕事が絡んでいるため、
余計に慎重に言葉を選ぶ。
彼女はそう言って微笑んだ。
僕がそう答えると同時に閉館のアナウンスが鳴った。
彼女の微笑みが、“学芸員”の笑みに変わる。
彼女にお礼を言い、僕はアナウンス通り
出口に向かうことにする。
古代エジプトの展示室を抜け、
順路に沿ってローマ帝国時代の展示室へと
足を踏み入れた。
ローマ帝国の煌びやかな展示物を横目に
出口へと向かって進む。
──結局、エジプトはローマの属国になったんだっけ。
世界史には詳しくない。
しかし「弱いものは強いものに抗うことすらできずに
飲み込まれていく」という事実だけは、
この世界のどうしようもない真理だ。
支配される側の悲劇は
いつも歴史の影に埋もれてしまう。
それはいつの時代も、どの世界でも
変わらないのだろう。
博物館を出て、冷たい夜の空気を吸い込む。
僕の心の中には昔から
ぽっかりと穴が空いたような喪失感があった。
その喪失感を埋めるため、失ってしまったらしい
“何か”を必死に探し続けている。
その“何か”の正体は、今はまだ予想もついていない。
だから僕は今も、この華やかで残酷な世界で
虚像を演じながらその“何か”を探し続けている。
僕は無意識に、東京の空を見上げていた。
無数のネオンに埋もれて、星はほとんど見えない。
だからこれまで星を気にしたことすらなかった。
それなのに、今はどうしようもなく、
遥か彼方の光を求めている。
何千年も前に輝いていた星の光が今
ようやくこの街に届いているのだと、ふと実感した。
そんなことが頭をよぎったのは、最近、今から
何千年も昔の時代を生きた「アンクネジェブ」の
ことばかり考えているからだろうか。
目を凝らしてやっと見つけることができた、
その孤独な星の輝きだけが、
僕の心を満たしてくれるような気がした。











編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!