第8話

失踪者
2
2026/05/30 04:00 更新
「……父さん?」
蒼の声が震えた。
それは恐怖というより、信じたくないという声だった。
黒いスーツの男は黙って立っている。
顔色は死人のように青白い。
目の下は黒く落ち窪み、まるで長い間眠っていない人間みたいだった。
だが、一番異様だったのは――。
男の足元。
影がなかった。
部屋の電灯は壊れている。
まともな光源もない。
それでも、人間ならどこかに影ができるはずだった。
なのに。
男だけは影を持っていなかった。
まるで、人間の形をした「空洞」。
「父さん……なのか?」
蒼が一歩前へ出る。
男は答えない。
ただ。
ゆっくり首を傾けた。
その動きに、澪は嫌な違和感を覚えた。
人間の動きではない。
どこかぎこちない。
まるで誰かが「人間の真似」をしているみたいだった。
やがて男が口を開く。
「蒼」
蒼の顔が強張る。
父親の声だった。
間違いなく。
「帰ろう」
その言葉を聞いた瞬間。
壁の中の無数の顔が苦しそうに歪んだ。
骨の山も震え始める。
白いワンピースの女が叫んだ。
「だめ!!」
その声は悲鳴だった。
本気で止めようとしている。
男はゆっくり女を見た。
そして。
にたり。
笑った。
その瞬間。
顔が裂けた。
耳まで。
あり得ないほど大きく。
人間の顔が、紙みたいに裂けていく。
蒼が凍りつく。
澪も動けない。
男の顔の中には――顔があった。
また別の顔。
さらにその中にも顔。
何十人もの顔が折り重なっていた。
泣いている顔。
怒っている顔。
助けを求める顔。
すべてが一つの肉塊になっていた。
「父さんじゃない……」
蒼が呟く。
男は笑う。
何十人もの声が重なる。
「やっと気づいたか」
その瞬間。
404号室が激しく揺れた。
ドゴォン!!
壁に亀裂が走る。
床が割れる。
天井から黒い液体が降り注ぐ。
そして。
澪は見てしまった。
壁の向こう。
コンクリートの奥。
そこに無数の人間が埋まっていた。
骨だけじゃない。
まだ新しい遺体も。
服も。
靴も。
鞄も。
まるでマンションそのものが巨大な墓場だった。
「なんで……」
涙がこぼれる。
男は答えた。
「ここは部屋じゃない」
その声が部屋中に響く。
「入口だ」
澪の心臓が止まりそうになった。
「入口……?」
男は両腕を広げた。
すると。
404号室の壁が崩れていく。
その向こうに見えたのは。
真っ暗な空間。
底が見えない。
果てしない闇。
そこから何千本もの手が伸びていた。
人間の手。
助けを求める手。
引きずり込もうとする手。
男は言った。
「ここに落ちた者は帰れない」
蒼が拳を握る。
「父さんをどうした」
男は答えない。
代わりに。
その顔の中の一つが泣き始めた。
そして。
その泣いている顔は。
本当に蒼の父親だった。
「逃げろ」
小さな声。
「蒼」
蒼の目が見開かれる。
「父さん!?」
「早く……」
男の体が痙攣する。
何十もの顔が苦しそうに歪む。
そして。
一瞬だけ。
本当の顔が現れた。
疲れ果てた男の顔。
蒼の父親。
「ごめんな……」
その瞬間。
無数の顔が再び覆い被さる。
男は絶叫した。
いや。
男の中にいる何十人もの存在が叫んだ。
部屋が揺れる。
壁が崩れる。
闇の穴が広がる。
そして。
その奥から。
巨大な「何か」が目を開いた。
目だけだった。
人間の頭より大きい。
真っ黒な瞳。
底の見えない目。
それがゆっくり澪を見た。
その瞬間。
澪は理解した。
このマンションで起きたすべての出来事。
行方不明。
事故死。
怪談。
心霊現象。
それらは原因ではない。
全部。
「あれ」の影響だった。
404号室の向こうにいる存在。
もっと古いもの。
もっと大きいもの。
そして。
それは澪を見つけた。
闇の奥から。
はっきりと。
澪の名前を呼ぶ。
「――しらいし、みお」
なぜ知っているのか。
分からない。
だが。
その声を聞いた瞬間。
澪の失われた記憶が、完全に蘇ろうとしていた。
幼い頃。
404号室。
黒いスーツの男。
そして。
自分だけが生きて帰った理由。
それを思い出した瞬間――
澪は絶望することになる。

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